飯盛元章「闇堕ちの哲学/怒りのダークサイド試論」 (『文藝 2022年夏季号』)
☆mediopos2708 2022.4.16
怒りとは何だろうか
怒りとはじぶんの思いどおりに
ならないものにたいする
過度の感情的な反発であり
その深みには悲しみがある
そうとらえているくらいだったが
『文藝 2022年夏季号』の「怒り」の特集に
論考のひとつとして掲載されている
飯盛元章「闇堕ちの哲学/怒りのダークサイド試論」が
とても興味いものだったので
その主な論旨を辿ってみることにする
著者は怒りを理性の外部にある
狂気の次元としてのダークサイドからとらえているが
マーサ・C・ヌスバウムはその『怒りと赦し』で
逆に理性の次元である
ライトサイドからとらえているという
古代ギリシア以来の哲学者は
怒りは有害であるとし
その問題点を指摘しながらも
それを理性の力によって
「過去に縛られ報復を望む怒りが、
未来志向の建設的な態度へ転じる変容」させ
乗り越えるべき〈移行〉だととらえてきた
ヌスバウムの視点もそれに沿ったものだ
それに対しアグネス・カラードは
「怒りの負の側面を軽視している」と批判する
「哲学者たちは、復讐心といった
怒りの積極的側面を切り捨てて、
不正への抗議という怒りの「モラルサイド」だけ」に
目を向けているが
怒りから「ダークサイドは切り離せない」といい
そのダークサイドもまた合理的なのだという
本論考の飯盛元章はさらにそれに対し
「怒りのダークサイドは、非理性的な狂気の闇」で
「純粋な怒りに飲まれた主体は、ときに完全に闇堕ち」し
「主体自身が破壊されてしま」い
「他なるものへと変身してしまう」という
それまで主体だったものが
怒りによって「闇落ち」してしまうと
それまでの同一性が断ち切られ
「道徳的な行動へ突き動かされて」いき
その断絶が強い場合には「不条理な暴力によって
主体そのものが無に帰されてしまう」ことにさえなる
主体には「理性の光に照らされたライトサイド」と
「狂気の闇に包まれたダークサイド」があり
日常的には人は「ライトサイド」の側にあるが
「不意に訪れる不条理な出来事をきっかけに、
怒りのダークサイドに否応なく飲み込まれてしまう」
そしてそれまでの人格は破壊され
「とつぜん復讐の女神となってしまう」
つまりライトサイドからダークサイドへの〈移行〉
としての「闇堕ち」である
ここで興味深いことに
「赦し」についての次元が付加される
「純粋な赦し」とは
復讐する相手との理性的な「和解」ではなく
「理性的な理解の外部で、赦しえないものをたただ赦す」
という「狂気」なのだという
合理的な「和解」によっては
ほんらいの「赦し」は可能ではない
狂気の次元は狂気の次元によってしか「和解」できないのだ
純粋な怒りが理性の外部にあるように
純粋な許しもまた理性の外部にあるという
そして純粋な許しもまた純粋な怒りと同様に
「理性を超えた狂気の一撃によって不意に到来し、
主体を破壊的に変貌させる」
その意味で「理性の次元であるライトサイド」は
「怒りのダークサイドと、赦しのダークサイド」という
二方向の狂気に挟まれているのだという
以上かなり深い議論展開になっているが
感情には感情の論理があるが
それが合理性の範囲を超えてしまったとき
それを「和解」させるには
非合理の次元での働きかけが必要になるということだろう
キリストは磔刑・埋葬後地下へと降ったというが
そのこともダークサイドを解放するには
ダークサイドでの働きかけが必要だった
ということからとらえることもできる
合理的なレベルでのことは
合理的なライトサイドで「和解」できるが
非合理的なレベルでのことは
非合理的なダークサイドでなければ「和解」できない
わたしたちの日常的な場はもちろん
さまざまな科学や思想そして政治等のレベルまで
その視点で見れば見えてくるものもあるのではないか
■飯盛元章「闇堕ちの哲学/怒りのダークサイド試論」
(『文藝 2022年夏季号』所収)
「怒りとは何か。」
「怒りとは、不意に到来し、主体を劇的に変容させてしまう闇の力である。
このよく知られたありふれた事実を、あらためて強調してみたいと思う。」
(「理性的で未来志向の怒り?」より)
「マーサ・C・ヌスバウムの『怒りと赦し』から出発しよう。ヌスバウムは、怒りから、いわば光の力を抽出しようと試みている。本稿とは正反対の立場だ。
ヌスバウムによれば、そもそも古代ギリシア以来、哲学者たちは怒りの問題点を指摘してきた。怒りには、報復の欲望が結びついている。この負の側面は、人間社会に破壊的な事態をもたらす。したがって、怒りは取り除かれねばならない。多くの哲学者たちは、怒りについてこのように考えてきた。ヌスバウムも過去の哲学者たちに同意し、基本的に怒りは有害であると主張する。
ヌスバウムが積極的に描き出そうと試みるのは、過去に縛られ報復を望む怒りが、未来志向の建設的な態度へ転じる変容である。怒りから、未来志向の正義へ。この変容をヌスバウムは〈移行〉(Transition)と呼ぶ。〈移行〉は、『怒りと赦し』の最重要概念だ。
(…)
しかしじっさいのところ、一人の人間の怒りは、いったいどのようにして未来志向の態度へ〈移行〉するのだろうか。ヌスバウムが考える〈移行〉のロジックはこうだ。
怒りには「報復」(payback)への欲望が結びついている。しかし、よくよく考えてみればわかるとおり、そもそも報復は合理的ではない。「犯罪者になにかしたところで、死者が生き返るわけでも、折れた手足が元に戻るわけでも、性的暴行がなかったことになるわけでもない」。つまり。払い戻しが成立しないのだ。報復には意味がない。そこに意味を見出す思考は、「呪術的思考」(magical thinking)にすぎない。それゆえ、「理性を備えた人」であれば、怒りから離れて「より生産的で前向きな思考」へ〈移行〉していくことになるだろう。このようにヌスバウムは考える。怒りは、理性の力をつうじて、社会全体の幸福を追求するような態度へと〈移行〉する。怒りは、このようにして乗り越えられるべきものとして位置づけられる。
他方でヌスバウムは、〈移行〉状態にありつつも、ある種の怒りが残存するような境界事例を認めている。ヌスバウムは、そうした怒りを〈移行的怒り〉(Transition-Anger)と呼ぶ。それは「なんてひどいんだ! なんとかしなければならない」といったタイプの怒りである。つまり、たしかに怒りではあるが、報復を求めずに、社会全体の幸福を追求する建設的な怒りだ。」
「ヌスバウムは、怒りの負の側面を軽視している。本稿とおなじこの観点からヌスバウムの議論の噛み付いているのは、アグネス・カラードである。
カラードにしたがえば、怒りを積極的に評価する論者も問題視する論者も、みなそろって怒りの「ダークサイド」を切り離す。哲学者たちは、復讐心といった怒りの積極的側面を切り捨てて、不正への抗議という怒りの「モラルサイド」だけを抽出する。そして、それに怒りとはべつの名前をあたえて、こちらを重視するのだ。たとえば、〈移行的怒り〉といった名で。
しかし、ダークサイドは切り離せない、とカラードは主張する。彼女からすれば、〈移行的怒り〉は「哲学者のフィクション」にすぎない。怒りから血の匂いを払拭することはできないのだ。要するにカラードは、怒りのダークサイドを切り捨てるな、と怒っているのである。
哲学者たちは、復讐心という怒りのダークサイドが非合理であることを根拠に、それを切り捨てようとする。これに対してカラードは、「怨恨と復讐は完全に合理的である」と述べ、ダークサイドの合理性を強調する。
議論を整理しよう。一方でヌスバウムは、怒りのダークサイドを非合理なものとして切り捨て、合理的な〈移行的怒り〉について語る。他方でカラードは、怒りのダークサイドを重視し、さらにそれが合理的なものだと主張する。
本稿は、ダークサイドを重視しているという点でカラードの主張を支持する。しかし、ダークサイドが合理的であるという彼女の主張に対しては異論を唱えたい。怒りとは、ストア派の哲学者セネカが言うように
「狂気」である。怒りのダークサイドは、非理性的な狂気の闇だ。本稿の目的は、この闇が主体にとってどのような存在なのかをあらためて問うことにある。(…)本稿が試みるのは、怒りの存在論だ。「良い/悪い」という観点とは独立に、主体にとって怒りがどのような存在であるのかを描き出すことにしたい。」
(「怒り・変身・闇堕ち」より)
「血の気が脱色された〈移行的怒り〉ではなく、ダークサイドに直結した純粋な怒りへ。
純粋な怒りに飲まれた主体は、ときに完全に闇堕ちする。強い復讐心に取り憑かれ、通常の道徳規範から逸脱した行動へとどこまでも突き進んでいくのだ。まさにこのために、ヌスバウムを含む多くの哲学者たちは怒りを問題視していたのである。「怒りの破壊性」は、主体を非道徳的な破壊行為へと駆り立て、社会全体に対して有害な効果をもたらす、というわけだ。
ここで危惧されている「破壊」は、ターゲットの破壊である。だが、本稿が強調したいのは、闇堕ちにおいてそもそも主体自身が破壊されてしまっている、という点だ。純粋な怒りとは、不意に到来し、主体を破壊的に変容させてしまう、コントロール不可能な闇の力である。主体は、怒りによって他なるものへと変身してしまうのだ。怒りにおけるこの変身性に着目したい。まず、カトリーヌ・マラブーの「破壊可能性」(plasticité destructrice)という概念を参照しよう。
マラブーが描き出そうと試みるのは、つぎのような事態である。
「時間をかけて作り上げられてきた雪だるま、ごろごろと転がっていくうちに大きくなり、膨れ上がり、完成されていく雪の塊を、不意に突き崩してしまうような変容が怒ることがある[…]テロリストの襲撃のような変化が存在するのだ。」
このように、主体のそれまでの同一性がとつぜん断ち切られてしまうような事態がある。」
「闇堕ちは、同一性の断絶の程度に応じて、つぎにようにレベル分けすることができる。
闇堕ちLv.1——主体の同一性の断絶が弱い場合。これは主体自身の元々備わっている傾向性(正義感、恐怖心、野心など)が漸次的に強化されることによって、非道徳的な行動へ突き動かされていく、というパターンだ。」
「闇堕ちLv.2——主体の同一性の断絶が強い場合。これは、主体が大切にするものに対してとつじょ暴力が振るわれ、そのことによって怒りや憎しみを抱き。非道徳的な行動へ突き動かされていく、というパターンだ。」
「闇堕ちLv.3——主体の同一性の断絶がひじょうに強い場合。これは、不条理な暴力によって主体そのものが無に帰されてしまう、というパターンだ。」
(「純粋な怒りと純粋な赦し」より)
「主体のうちには、ふたつの次元がある。理性の光に照らされたライトサイドと、狂気の闇に包まれたダークサイドである。人は日常的にライトサイドに属している。(…)
しかし、不意に訪れる不条理な出来事をきっかけに、怒りのダークサイドに否応なく飲み込まれてしまう。それまでの温厚な人格はとつじょ破壊され、まったくべつの人格へと劇的に変身する。主体は、あるときとつぜん復讐の女神となってしまうのだ。ライトサイドからダークサイドげの逆向きの〈移行〉。つまり、闇堕ちである。」
「ここに「赦し」というさらなる次元を加えることにしよう。
怒りを放棄することは相手を赦すことにつながる、と考えることができるだろう。ヌスバウムも、『怒りと赦し』のなかで一章を割き、赦しについての分析を試みている。しかしヌスバウムは、いかなるタイプの赦しに対しても、それほど積極的な評価をあたえてはいない。(…)
本稿は赦しを、ヌスバウムが考えるよりも過剰なものとして捉えることにしたい。」
「純粋な赦しは、いっさい改心するつもりのない罪人を、いかなる条件もなしに赦すのでなければならない。それは、和解という取引の外部で、つまり理性的な理解の外部で、赦しえないものをたただ赦す、という仕方でのみ可能となる。まさにそれゆえに、赦しとは狂気なのである。」
「さしあたり、ふたつの道がある。その一方は、加害者に対してまったく同等の損失を与える、という道だ。復讐に突き進む闇堕ちの道である。ところが、〈わたしの無限の損失=加害者の無限の損失〉という等式は、けっして完成しない。なぜなら、わたしが受けた損失の無限性は特異なものであって、他のいかなる無限とも比較不可能なものであるからだ。(…)
他方で、無限の損失が生じた被害者に対して、プラスの払い戻しをあたえる、という道がある。エコノミー的な取引の道だ。条件的な赦しだけでなく、〈移行〉もまた、この道に属している。ライトサイドとは取引所なのである。(…)
ところが、この取引はまったく成立していない。なぜなら、被害者における無限の損失と比べて、いかなる払い戻しも圧倒的に不十分なものでしかないからだ。(…)
わたしたちは、ある程度の払い戻しがなされたことをもって、この取引が成立したのだとみなしている(あるいは、そうせざるをえない)。しかし、取引成立の背後には、無限の損失の余剰分がつねに溢れ出している。この取り残されたマイナスの余剰分を、じつは純粋で無条件的な赦しが取引の裏側でこっそりと赦している、と考えることができるだろう。(…)このような仕方で、ライトサイドの次元には、それを超えた純粋で狂気的な赦しの次元、いわばハイパーライトサイドが絡みついているのだ。
純粋な赦しと純粋な怒りは、狂気的であるという点において一致する。この狂気性の特徴は、つぎの二点にある。ひとつ目は、ままならなさという点だ。純粋な怒りも純粋な赦しも、不意に到来する。それらは、理性的な主体の権能を超え出ているという意味で、狂気的な力であると言える。さらにふたつ目は、自己破壊性という点だ。純粋な怒りは、理性的で温厚な人格を破壊し、非合理的で暴力的な人格へと変身させてしまう。また、純粋な赦しは、取引の理性的な計算をこっそりと突き崩す。払い戻されていない無限の損失分があるにもかかわらず、それらすべてを不意にチャラにしてしまうのだ。このあまりにも破壊的な振る舞いが、条件的な赦しや〈移行〉的態度に絡みついているのである。」
「理性の次元であるライトサイドは、二方向の狂気に挟まれている。怒りのダークサイドと、赦しのダークサイドだ。前者が暗すぎて理性によっては照らし出せない闇の領域だとすれば、後者は明るすぎて理性が直視することのできない光の領域である。(…)怒ることも赦すことも、理性を超えた狂気の一撃によって不意に到来し、主体を破壊的に変貌させるのである。」
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