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吉野 裕子『十二支/易・五行と日本の民俗』/安岡正篤『干支の活学』
☆mediopos3670(2024.12.6.)
前回(mediopos3669/2024.12.5.)は
西洋古代の占星術の話だったが
今回は話を日本の占術に関係した
来年の干支「乙巳(きのと・み)」について
干支は
陰陽説と木火土金水の五行説が組み合わされた
陰陽五行説と関係した
十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と
中国で古くから暦の月の呼び方や時刻・方角に使われていた
十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)によって
その十と十二の最小公倍数である
六十の周期で表されているが
来年はその十干のなかの「乙(きのと)」と
十二支の「巳(み)」による「乙巳(きのと・み)」
今年は「甲(きのえ)と「辰(たつ)」による
「甲辰(きのえ・たつ)」である
ちなみに「乙(きのと)」は
万物の栄枯盛衰の象において
「軋る」という「草木の幼芽のまだ伸長し得ず、屈曲の状態」を表し
「巳(み)」は
「植物の発生・繁茂・伏蔵の輪廻」において
「已む」という「万物が繁盛の極になった状態」を表し
五行では「火」の始め
動物では「蛇」が当てられている
干支については
吉野 裕子『十二支』や安岡正篤『干支の活学』など
興味深く読んだりしていたことがあるが
来年の干支「乙巳(きのと・み)」を
とりあげることにしたのは
安岡正篤『干支の活学』において
(この講義は六十年前の昭和四十年に行われている)
来年の干支「乙巳(きのと・み)」は
「在来の因習的生活にけりをつけて、雄々しくやってゆくのだ」
ということが示唆されていたことを思い出したからである
今年から来年にかけて起こり続けるであろう
さまざまな「変化」が
「干支」ではどうとらえられているのか・・・
まず今年の干支である「甲辰(きのえ・たつ)」だが
「甲(きのえ)」は
「旧体制の殻を破って創造を伸ばせ」ということ
「辰」は「非常に騒がしい動揺がある。けれどももう一つ実がない。
まかり間違えば、思いがけない変動・災禍を生ずる。」
ということ
甲と辰が組み合わされると
「旧体制を脱して創造の新しい歩を進めるが、
まだ外の寒気が強くて抵抗が多いために、思うように伸びない。
いい気になるというと、とんだ失敗をする。
だから気をつけて進んでゆかなければならぬ、ということ」になる
その「甲辰(きのえ・たつ)」を受けて
来年の「乙巳(きのと・み)」は
「新しい改革創造の歩を進めるけれども、まだまだ外の抵抗力が強い。
しかしいかなる抵抗があっても、どんな紆余曲折を経ても、
それを進めてゆかねばならぬ」ということだという
乙巳の「巳」は
冬眠をしていた蛇が
「地中生活・冬眠生活を終って、新しい地上活動をする」ように
「従来の因習生活に終りを告げる」ということでもある
安岡正篤によれば
この「乙巳(きのと・み)」という年は
「六十干支の中でも、特別な組み合わせの干支」で
面白くかつ多事な年であり
この講義が行われた昭和四〇年の六十年前は明治三十八年で
「前年の三十七年に開戦した日露戦争に
乙巳の文字どおりけりをつけて、
どうやら勝ち戦というかっこうをつけることに成功」した年
時代を遡っていくと
慶長十(一六〇五)年の乙巳では
徳川家康が秀忠を二大将軍に押し立て
徳川政権に新しい体制を進めた年
文治元(一一八五)年は
「源頼朝が屋島、壇ノ浦に平家を滅ぼし」
「いわゆる鎌倉幕府の政治体性というものを確立」した年
そして大化の改新(六四五年)もまた乙巳であるという
そうしたことから予感されるように
来年の「乙巳(きのと・み)」も
現在起こり続けている世の中のさまざまな混乱は
収まることはなさそうだが
それでもなんらかの「改新」は起こってきそうではある
注意深くしかも恐れることなく
新たな始まりを迎えることにしたい
■吉野 裕子『十二支/易・五行と日本の民俗』(人文書院 1994/7)
■安岡正篤『干支の活学』 (人間学講話第5集 プレジデント社 1989/11)
**(吉野 裕子『十二支』〜「序」より)
*「古代中国の「易」、及びそれから発展した「五行」は、その宇宙観、世界観でもあるが、十二支は十干と共にこれと相即不離に結びつき、この哲学の運用の手段となっているものであうr。
年も月も日も時刻も、すべて十二支によって構造化され、陰陽五行はこの仕組みの軌道上に初めて動きだす。
十二支の各支は、陰陽五行の法則を負い、役割を担っているので、先人達はそれによって神の祭りの日を定め、廻り来る年の実相を知って作物の豊凶を予知し、予防法を講じてきた。
年のみならず、十二支は前述のように月、日、時刻のすべてに亘り配当され、同時に方位にも十二支が割り当てられている。」
**(吉野 裕子『十二支』〜「巳」より)
*「十二支の「巳」は、五行では「火」の始めで、動物では「蛇」が配当されている。」
**(吉野 裕子『十二支』〜「陰陽五行の概要」より)
・(三)五行
*「木火土金水の五元素の輪廻・作用が「五行」であるが、五行には、1 生成順、2 相生順、3相克(勝)順の三つがある。」
「「相生」は、木は火を生じ、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生じるという順序。つまり相生とは、木火土金水の五気が順送りに相手を生み出して行くプラスの関係(・・・)。木生火 火生土 土生金 金製水 水生木」
「相生が順送りに相手を生じさせていくのに対し、相克は反対に、木火土金水の五気が順送りに相手を剋して行く、いわばマイナスの関係。木剋土 土剋水 水剋火 火剋金 金剋木」
「森羅万象の象徴であり木火土金水の間に、相生・相克の二つの面があって、万象ははじめて穏当な循環が得られ、この循環、即ち五行によってこの世の万象の永遠性が保証されるわけである。」
・(四)十干
*「原初唯一絶対の存在は、「渾沌」。これを『易』では「太極」とするが、おkの太極から派生するのが根源の「陰陽」二気である。この二気から、木火土金水の五気が生じるが、この五気はさらに「兄弟(えと)」の陰陽に岐(わか)れる。たとえば、木気は木の兄(甲)、木の弟(乙)に、火気は火の兄(丙)、火の弟(丁)に文化するが、これが、「十干(じつかん)」である。」
「十干の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の各字は、その中に万物の栄枯盛衰の象を内蔵している。
「甲」 はヨロイで、草木の種がまだ厚皮を被っている状態。
「乙」 は軋るで、草木の幼芽のまだ伸長し得ず、屈曲の状態。
「丙」 は炳(あき)らかで、草木が伸長して、その形体が顕明になった状態。
「丁」 は壮と同義で、草木の形態の充実した状態。
「戊」 は茂るで、草木の繁茂して盛大になった状態。
「己」 は紀で、草木は繁茂して盛大となり、かつてその条理の整った状態。
「庚」 は更(あらた)まるで、草木の成熟団結して行きつまった結果、自ずから新しいものに改まってゆこうとする状態。
「辛」 は新で、草木の枯死してまた新しくなろうとすること。
「壬」 は草木の種子の内部に妊まれることを指す。
「癸」 は揆(はか)るで、種子の内部に妊まれた生命体の長さが、度(はか)られる程になったという象。ついで帽子をかぶってムクムクと動きだす「甲」となるわけである。
・(五)十二支
*「十干に組み合わされるものが「十二支」であるが、十二支は五惑星の中で、最も尊貴とされた木星の運行に拠っている。木星の運行は十二年で天を一周するが、厳密には十一・八六年である。つまり木星は一年に十二区画の中の一区画ずつを移行し、その所在は十二次によって示される。」
「木星は太陽や月とは逆に西から東に向かって移動するので、木星の反映ともいうべき仮の星を設けて、これを時計と同じように東から西へと移動させることにした。この想像の星は神霊化されて「太歳(たいさい)」の名称で呼ばれるが、この太歳の居処につけた名が、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支である。つまり十二支は木星と反対方向に、同じ速度で巡る太歳の居処につけた名称であって、これが年の十二辰、または十二支である。」
*「十二支には、鼠・牛・虎・兎・竜・蛇等の獣が配されるが、その初見は後漢の王充の『論衡』であって本来、十二支の十二字の示す象意は、十干と大体同じく、植物の発生・繁茂・伏蔵の輪廻である。
「子」 は孳(ふえ)るで、新しい生命が種子の内部から萌し始める状態。
「丑」 は紐で、からむこと。芽が種子の内部でまだ伸びえぬ状態。
「寅」 は螾(うご)くで、草木の発生する状態。
「卯」 は茂るで、草木が地面を蔽う状態。
「辰」 は振るうで、陽気動き、雷がきらめき、振動し、草木が伸長する状態。
「巳」 は已むで、万物が繁盛の極になった状態。
「午」 は忤(さか)らうで、万物にはじめて衰微の傾向がおこりはじめたさま。
「未」 は味わうで、万物が成熟して滋味を生じたさま。
「申」 は呻くで、万物が成熟して締めつけられ、固まってゆく状態。
「酉」 は緧(ちぢ)むで、万物が成熟に達し、むしろちぢむ状態。
「戌」 は滅ぶ、または切ることで、万物が滅びゆく状態。
「亥」 は閡(とぢ)るで、万物の生命力が凋落し、すでに種子の内部に生命が内蔵されや様。」
「十干の「干」は「幹」、十二支の「支」は「枝」で、「幹枝」を意味する。中国では古く殷の時代から、この十と十二が組み合わされ、その最小公倍数、六十の周期で日が数えられたという。
十干十二支の組み合わせは甲子(きのえね)にはじまって、癸亥(みずのとい)に終わるが、この組み合わせを「六十花甲子」と呼び、生まれてから六十年を経て、生年の干支を迎えるのを還暦とする。六十の干支の組み合わせを一巡することは、一つの人生を生き切ったことを意味し、新たに次の人生に誕生するというわけで、赤児と同様に赤い頭巾、現代では赤いジャケツなどが祝品として贈られるのである。」
**(安岡正篤『干支の活学』〜「乙巳(きのと・み)————昭和四十年」より)
*「今年の干支は乙巳(きのと・み)であります。」
*「去年は甲辰(きのえ・たつ)でありました。「甲(きのえ)」という字は、今まで寒さのために殻をかぶっておった草木の芽が、その殻を破って頭を出したという象形文字であります。したがってSein 存在、あるがままで申しますと、春になって草木が殻を破って芽を出す(・・・)という自然現象を表す。Sollen 当為、人間のなすべき行為で申しますと、旧体制の殻を破って創造を伸ばせ、ということを教えておるわけであります。
支の「辰」は震と同じ意味で、易の六十四卦の震為雷、即ち雷の卦を表すものであります。非常に騒がしい動揺がある。けれどももう一つ実がない。まかり間違えば、思いがけない変動・災禍を生ずる。
そこで甲と辰とが組み合わさると、旧体制を脱して創造の新しい歩を進めるが、まだ外の寒気が強くて抵抗が多いために、思うように伸びない。いい気になるというと、とんだ失敗をする。だから気をつけて進んでゆかなければならぬ、ということになるわけであります。」
*「それが今年になると、去年の甲辰で出した芽が、まだ外界の抵抗が強いために、真っ直ぐに伸びないで屈曲しておる。乙という字は草木の芽が曲がりくねっておる象形文字であります。だから新しい改革創造の歩を進めるけれども、まだまだ外の抵抗力が強い。しかしいかなる抵抗があっても、どんな紆余曲折を経ても、それを進めてゆかねばならぬということであります。」
「乙巳の巳は、動物の象形文字であります。説文字で申しますと、今まで冬眠をしておった蛇が春になって、ぼつぼつ冬眠生活を終って地表に這い出す形を表しておる。即ち従来の地中生活・冬眠生活を終って、新しい地上活動をするということで、従来の因習生活に終りを告げるという意味がこの文字であります。その意味で已(やむ)にひとしい。」
「したがって乙巳という年は、いかに外界の抵抗力が強くとも、それに屈せずに、弾力的に、とにかく在来の因習的生活にけりをつけて、雄々しくやってゆくのだ、とこういう意味を表すわけです。文字というものは面白もので、そういう弾力的な創造的な発展の精神がなくて、悪がたまりに固まってしまった、というのが己という文字であります。自己になってしまうわけです。」
*「この乙巳という干支は六十干支の中でも、特別な組み合わせの干支でありまして、たいへん面白いばかりでなく、また実に多事なのであります。これをわが国の歴史の事実に徴して申しますと、一回り溯って前の乙巳の年というと、これは明治三十八年になる。この年には、当時の政治家は野党でもたいそう賢明でありまして、前年の三十七年に開戦した日露戦争に乙巳の文字どおりけりをつけて、どうやら勝ち戦というかっこうをつけることに成功いたしました。(・・・)
もう少し溯って大きい例を拾いますと、徳川家康が征夷大将軍となって天下の大勢にけりをつけて、とにかくいろいろ議論がありましたけれども、秀忠を二大将軍に押し立てて、徳川政権に新しい体制を進めたのが慶長十年(一六〇五)の乙巳でありました。
さらに溯って文治元年(一一八五)、源頼朝が屋島、壇ノ浦に平家を滅ぼし、全国に守護・地頭を設置して、いわゆる鎌倉幕府の政治体性というものを確立いたしました。この年がやはり乙巳の年でありまし。」
もっと溯って、有名な大化の改新(六四五)もやはりこの乙巳の年に行われておりますし、百済から渡来した仏像を物部守屋が堀江に投げ込んで、新しいいろいろな問題を起こす原因を開いたのも、この乙巳の年であります。」