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辻田真佐憲「煽情の考古学/連載最終回 新しい情報戦の時代に」(『文學界』2024年9月号)

☆mediopos3559(2024.8.17)

辻田真佐憲「煽情の考古学」(『文學界』で連載)が
最終回を迎えている(第32回)
標題は「新しい情報戦の時代に」

記事は「われわれはいま、新しい情報戦の時代に生きている。」
という言葉ではじまっている。

少しでも意識的に世の中を見ている者にとって
この言葉は深く肯ける実感だろう

しかしいまだ
新聞やマス・メディアからの情報はいうまでもなく
インターネットにおいても
それらの多くがとくに政治的なものに関し
「プロパガンダ」や「言論統制」に満ちたものであることに
意識的であるひとたちが増えているようには見えない
(いまだ街には「マスク」状態の人たちが多くいるように)

しかも辻田氏の述べるように
「現在の情報戦はこれまで以上にハイブリッドで、
言論統制や愛国ビジネスや自警団的な動きなどが混ざりあっている。
にもかかわらず、これらをすべてプロパガンダと称することは、
かえって目の前で起こっている事態を見えにくくする恐れがある」

そんななかで辻田氏は「非主流」の動きを含む
「二流の歴史」に注目する

「「一流」とされるインテリが繰り出すファクトやエビデンスが
いかに無力であるかは、われわれが今日よく知るところだ。
ひとは事実ではなく感情で動く。
そのため、あえて「二流」の熱情を体感するために、
現地取材におもむく必要があった」とし
「情報戦の時代、もっとも力をもつのもまた「二流の歴史」だろう」
という

本連載の「二流の歴史」という観点からは少し外れるが
「新しい情報戦の時代に」
どのような情報に向きあえばいいかについて
私見を述べておくことにしたい

とくに政治的な要素の少ない項目については
その間接的に影響する側面のみに注目すればいいだろうが
(ある政治的な事象を隠蔽するために
道具としてイベントやスキャンダルが使われることには
ある程度注意が必要だろうが)

まず新聞やマス・メディア
X(旧ツイッター)以外のSNSメディアに関しては
基本的にプロパガンダと言論統制に満ちている
と考えるのが基本だろう
(都合の悪い情報はほとんどが隠蔽され錯誤に満ちている)

これは第二次大戦中の大衆動員と基本的に変わらない
しかも与えられた情報や知識を疑わない姿勢は
学校教育の時点でほとんど洗脳状態と化している

書籍においては
バイアスのかかりすぎた情報に対して
警鐘を発するものも比較的多くあるが
逆にプロパガンダと言論統制を事とするものも多く
どちらにせよ書店に足を運び
意識的に情報を吟味する姿勢があってはじめて
そこからある情報を得ることも可能となる
しかしそこで最新の情報を得ることは難しい

清濁あわせのむかたちで
さまざまな情報ソースを得ることができるのは
X(旧ツイッター)だろうが
インターネットは基本的に
「アテンション・エコノミー」であるため
ある程度意識的に関心を持ちえないとき
さまざまなバイアスを得てしまうことも多く
そのままではそこから情報を取ることはむずかしい

そんななかで
何が正しい情報なのかそうでない情報なのかを
正確に見定めることは実際上困難な場合が多いため

あるテーマに関して
いくつかの対立する複数(できれば3つ以上)の情報を比較し
それぞれの情報ソースの出所を確認した上で
それぞれがどんな「利益」あるいは「思想的バイアス」に
結びついているかという可能性について吟味する必要がある

そしてそのなかからある程度の一貫性があり
「利益」あるいは「思想的バイアス」が
比較的少ないであろう情報についての関連情報を集める
その時点でも重要なのは
それを正しい情報だとは速断しないことである

明らかにプロパガンダや言論統制に満ちた情報についても
それらがどのような情報ソースから
どのような仕方で出されているのかを常に注意しておく

どんな情報についても
それを確認し得るかどうかは別として
「なぜそうなのか」という意識を常に持っておくこと

学校教育などで教えられることを疑わないひとは
往々にして教えられたことについて疑いをもたず
ある種の「権威」であるという理由で信じたりもする
(たとえ子供でも教科書を疑うことはできるのだけれど・・・)

辻田氏は上記のように「「一流」とされるインテリが繰り出す
ファクトやエビデンスがいかに無力であるかは、
われわれが今日よく知るところだ」と述べているが
おそらくそういう段階にはいまだ至っていない

たとえばコロナ禍においても
最初のPCR検査という時点で上記のような情報精査ができれば
そこでそれにまつわる危険な情報は得られていたはずだし
ワクチンを打つという選択を取らないでいる可能性は高くなる

陰謀論とされることについても
その言葉そのものの出所について意識的であることで
それそのものを無批判に使う「インテリ」からの情報の
バイアスによる錯誤から離れていることができる

情報が絶対正しいかどうかというよりは
なぜそういう情報と指導が与えられるのかについて
はじめに疑問をもっておくだけで
最低限の情報リテラシーは確保できる
つまり危険な情報とそれがもたらすものに対して
みずからの態度を決めるための基礎的な情報を得ることができる

それが「新しい情報戦の時代」において
最低限必要な態度ではないかと思われる

■辻田真佐憲「煽情の考古学/連載最終回 新しい情報戦の時代に」
 (『文學界』2024年9月号)

*「われわれはいま、新しい情報戦の時代に生きている。

 SNSを開いてみよう。そこはもう暇人の遊び場ではなく、政治をも動かす現実の一部だ。だからこそ、情報戦の主戦場となっている。X(旧ツイッター)がわかりやすい。ここで政治的な情報を見ない日はない。政府や政党が発信しているものもあれば、出どころが不明なものも多い。

 ウクライナ戦争やイスラエル・ハマス戦争をめぐる真偽の不明な画像や動画、日本国内でも政敵や論的をあげつらうさまざまなポスト。選挙ともなれば、これがいっそう加速する。各政党も、大使館のアカウントも、テキストや動画でアピールに日々余念がない。

 困ったことに、熱心なユーザーほど政治的な情報に興奮し、冷静さを失っている。こういう指摘をすること自体、どっちもどっちの冷笑主義だと槍玉に上げられてしまう。こうして怒りが積み重なり、相乗効果でどんどん歯止めが利かなくなっていく。」

*「そんな情報に便乗するかたちで、感情を逆なでする情報が氾濫する。今日は、注目を集めれば集めるほど、広告収入などで利益を得られるアテンション・エコノミーの時代でもある。インフルエンサーたちは、ここを逃すまいと手を替え品を替え、バズる発信を繰り出そうとする。かれらが「あいつは敵だ!」とだれかを吊し上げれば。そのフォロワーたちがそのひとにリプライの爆撃を浴びせる。政治家が率先してこれをやることもめずらしくない。

 このような情報戦の舞台は、フェイスブック、ユーチューブ、インスタグラム、ティックトックなどに幅広く広がっている。SNSが全盛の時代、そこから逃れるすべはない。オールドメディアでさえ、SNS抜きにはもはや成り立たないのだから。」

*「情報戦の時代は、プロパガンダの時代とも言いかえられる。(・・・)今日、プロパガンダについて聞かない日はなくなった。

 プロパガンダという用語は、第一世界大戦をきっかけに普及した。定義としては、政府や政党などの公的な組織が行う政治宣伝で、宣伝ビラや国策映画などが該当する。

 もちろん、その影響力は限定的だというのが現在の定説になっている。ひとは特定のコンテンツを見ただけで一挙に頭を乗っ取られるほど単純ではない。事実、プロパガンダの多くは凡庸で、ほとんど顧みられることもなく消えていくガラクタにすぎなかった。

 だが、今後はどうだろうか。生成AIの活用が広がり、フェイク動画や画像があまりに簡単に作成できるようになった。(・・・)

 しかも今日では、相手に応じて情報を細かくカスタマイズできる。アマゾンで何度か買い物をすると、あまりに的確にこちらが好みそうな商品を勧めてくることがある。あのターゲット広告の仕組みは政治にも使えてしまう。」

*「かつてレーニンは、政治的な宣伝について「多数の思想を少数に伝えること」と「少数の思想を多数に伝えること」を分けるべきだと述べた。多くの情報を伝えようとすると、その複雑な内容を理解できる一部のひとにしか伝わらない。そのいっぽうで、できるだけ大勢のひとに伝えようとすると、その内容を絞らざるをえない。レーニンのジレンマだった。

 だが、AIの発達によって、「多くの情報を(個々人の知力や興味にあわせてカスタマイズすることで)大勢に伝える」ことができるようになってきている。そのような意味でも、プロパガンダは新時代を迎えつつある。」

*「とはいえ、わたしは一周してプロパガンダという用語に限界を感じている。現在の情報戦はこれまで以上にハイブリッドで、言論統制や愛国ビジネスや自警団的な動きなどが混ざりあっている。にもかかわらず、これらをすべてプロパガンダと称することは、かえって目の前で起こっている事態を見えにくくする恐れがある。

 そこで概念を整理するため、わたしは冒頭の図をつくった。

 縦軸は、政府など公的機関の「上から」の動きと、民衆や企業などの「下から」の動きを区別している。横軸は、「これを見せたい」と押し出すポジの動きと、「これを隠したい」と打ち消すネガの動きを区別している・

 この図式に従えば、プロパガンダは公的機関の発信で「こういうものを見せたい」というポジの動きなので、(A)に該当する。反対に、公的機関が情報を打ち消そうとする動きは、(B)の言論統制と整理できる。

 そのいっぽうで、愛国ビジネスは企業が時局に便乗して「これで儲かる」と押し出すものなので(C)となる。民衆はときに戦争に熱狂し、この愛国ビジネスを喜んで消費する。そのため、時局便乗と包括的にまとめるといいだろう。反対に、民衆が不愉快なものを暴力などで打ち消そうとする動きもある。コロナ禍における自粛警察がわかりやすいが、これは(D)の自警団的行為と名付けることができる。

 もちろん、以上は図式的な理解にすぎず、実際はこれらが複雑に混ざり合っている。」

*******

*「本連載は今回で最後となる。これまで三一回にわたって国内外の記念碑や史跡などをめぐって向き合ってきたのは、まさにそのような政治と文化の複雑な融合だった。プロパガンダという概念に限界を覚えたのも、この取材を通じてのことだった。

 とくに痛感したのは「下からの参加」の重要性だった。民衆や地方は、中央の権力にただ従うだけの客体ではない。かれらにはかれらなりの思惑があり、能動的に動いていた。「われわれ」はこうだと自己規定し、われわれならざるものを「敵」と名指し、自分たちなりの「偉大さ」を讃え、建碑を通じてその理念を「永遠」に残そうとし、進んで「運動」を立ち上げて世の中に影響を及ぼそうとしていた。

 この「われわれ」「敵」「偉大さ」「永遠」「運動」は、政治と文化の関係を捉えるときに欠かせない五大キーワードだ。」

*「そのような非主流の動きは、しばしば軽視され「二流」のものだと切って捨てられる。たしかに、非主流のひとびとが引き合いに出しがちな主張は、かならずしも最新の学説にもとづいておらず、俗説にすぎないのかもしれない。だがそのような「二流」こそ、むしろ歴史や社会を動かしてきたのではなかったか。美濃部達吉の天候機関説が、国体明徴運動によって上書きされたことを思い出すとよい。」

「「一流」とされるインテリが繰り出すファクトやエビデンスがいかに無力であるかは、われわれが今日よく知るところだ。ひとは事実ではなく感情で動く。そのため、あえて「二流」の熱情を体感するために、現地取材におもむく必要があった。」

*「本連載で扱ってきたのは一貫して「二流の歴史」であった。そして情報戦の時代、もっとも力をもつのもまた「二流の歴史」だろう。

 これを全否定して「一流」に帰依するような道は現実逃避なので取りたくない。しかし、全肯定して便乗するのも問題だ。

 その答えもまた取材先にあった。現地におもむくと、かならずイデオロギーとのズレを発見したものだ。国境地帯で「敵」よりも身内で揉めていたり、「永遠」なはずのモニュメントが放置され草が生えていたりする。現実はSNS的な左右対立で切り分けられない。

 このようなバズるうえで不都合なものを、丁寧に拾い集めていく。それが近現代史がますますアテンション・エコノミーに取り込まれ、情報戦の弾丸になっていくなかで、重要なことではないだろうか。」

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