石井洋二郎 編『リベラルアーツと外国語』
☆mediopos2748 2022.9.4
二〇世紀のリベラルアーツは
いわゆる「一般教養」だったが
二一世紀のそれは
知識の限界
経験の限界
思考の限界
視野の限界
という四つの限界からの解放として
新たにその概念を構築することが必要だという
さまざまな制約・限界に無意識に囚われている
私たちが自らを解放するための技法として
「自らを開き、鍛え、創りあげていく」
「「創造性」に富んだダイナミックな精神の運動」
としての二一世紀のリベラルアーツ
言うは易く行うは難し
である
むしろいまや
「一般教養」なるものさえ
死に絶えようとしている感があり
さらに管理社会化によって
「ダイナミックな精神の運動」が
窒息しようとしているのではないか
だからこそ「四つの限界からの解放」が
リベラルアーツとして必要だというのだろうが・・・
そのために「外国語」を学ぶこと
母語とは異なった言語にふれ
「異質性との邂逅と相互行為」の重要性が示唆されるが
「複数の言語が話せるということが重要なのではない」
おそらくそれよりも重要なのは
「単数性の中にもありうる」
他極性・多様性へと開かれていくということ
そのためにどんな言語にも必ず宿っている「詩」を
みずからの「ことば」に見出し得る「精神の運動」へ
向かうということが求められる
少し意外だったが
この「シンポジウム」を出版するにあたって
寄稿された論文のなかに
シモーヌ・ヴェイユを研究されている鈴木順子さんの
「橋をかけるリベラルアーツ」を見つけた
「正義を見つけることと存在の尊厳を見つけることの間」の
「一つの橋渡し、あるいは桟橋のようなもの」を
シモーヌ・ヴェイユのなかに見出せるのだという
「リベラルアーツが行おうとするのは、
祈るしかできないことに耐えること、
すなわちいますぐには答えのない問いに延々と留まり続け、
ひたすら他者に注意を傾けることである」という
シモーヌ・ヴェイユの興味深いエピソードが紹介されている
ヴェイユは死の直前の約三ヶ月間を病室で過ごしたが
そこでサンスクリットの勉強を再開したというのである
それは「滅亡に向かいつつ自分と異なるものに尊厳を見出し、
これから自分が滅んでまさに一体化してゆく、
この世界、この宇宙への愛を確認する」
そのために他者の言語としてのサンスクリットを学んでいった
死を間近にしたときじぶんはなにをするか
というのはだれにとっても難しい問いかもしれないが
そのときにこそ「四つの限界からの解放」へと
みずからを向かわせようとする「精神の運動」が不可欠になる
■石井洋二郎 編
『リベラルアーツと外国語』
(水声社 2022/2)
(「【シンポジウム】リベラルアーツと外国語」より)
「石井洋二郎/センター設立の準備段階として、二〇一九年の一二月には「21世紀のリベラルアーツ」と題するシンポジウムを中央大学キャンパスにて開催いたしました。その成果は、二〇二〇年一二月に水声社から刊行された書籍、『21世紀のリベラルアーツ』にまとめられておりますので、ご関心の向きはぜひ手に取って御覧いただきたいと思いますが、このときの基本的な問題意識は、いわゆる「一般教養」とほとんど同じ意味の概念として了解されてきた二〇世紀のリベラルアーツの重要性は確認しながらも、二一世紀にはまだ二一世紀にふさわしい新たなリベラルアーツ概念を構築することが必要なのではないか、というものでした。
私は常々それを、「四つの限界からの解放」として定義することを提唱しております。四つの限界とはすなわち、知識の限界、経験の限界、思考の限界、そして視野の限界です。
私たちは全知全能の神ではありませんので、すべてのことを知っているわけではありませんし、当然ながら経験してきたことにも限りがあります。そして自分の頭で考えられることにも限界がありますし、目に見えていることにもおのずと限りがあります。このように、私たちが無意識のうちに囚われているさまざまな制約、限界から自らを解放するための技法、Arts、それが二一世紀のあるべきリベラルアーツの姿なのではないか、ということです。
こうした理念を実現するには、絶えず新たな知の地平に向けて自らを開き、鍛え、創りあげていく姿勢、すなわち「創造性」に富んだダイナミックな精神の運動が求められます。」
「鳥飼久美子/人間が言葉を持っているというのは、大変に幸せなことです。それはどういうことかといいますと、リベラルアーツが人を自由にするための学びであるならば、それを可能にするのが言語ですね。人間が自由を得て飛翔することを言葉が可能にしてくれると私は考えています。
(・・・)
それに加えまして私は、個人としての人間が生きるにあたって、その人生を豊かにするのは異質性との接触や対話(interaction相互行為)であり、広く見れば、異質性との邂逅と相互行為がない限り人類の進歩はない、と考えています。」
「小倉紀蔵/私が尊厳をどう考えるのかというと、関係性の概念として捉えています。真正性や自己正体性に正しさを見つけること、これこそが正しいのだと主張することがリベラルアーツではなく、すべての文明・文化・社会・共同体・個人と自分との〈あいだ〉に、「ここに尊厳が成り立つ」というものを「見つける」ことがリベラルアーツなのではないか。」
「ロバートキャンベル/リベラルアーツはcreativeであると同時にpublicであってほしい。私たちが市民として生き支え合えるように、人々のポテンシャルを認め合う社会に近づくように、そして、尊厳を見つけると同時に、正義という言葉は避けますけれども、人々がさまざまな社会資本に等しくアクセスでき、一人一人の能力や持ち場やさまざまな状況に応じて変化・変革できるようにするためには、外国語を学び、広くリベラルアーツに浸ること、まさに涵養することが、不可欠な方法だと私は思います。」
(鈴木順子「橋をかけるリベラルアーツ————他者と共に飛び立つための外国語」より)
「例えば小倉氏は次のように述べていた。「これこそが正しいのだと主張することがリベラルアーツであるべきではなく、すべての文明・文化・社会・共同体・個人と自分との〈あいだ〉に、「ここに尊厳が成り立つ」というものを「見つける」ことがリベラルアーツ」である、と。そして「せっかちに「正義」と結びつく(・・・・・・)その性急さをちょっと緩和:したいとしていた。
他方、キャンベル氏は「創造的リベラルアーツ」が当然creativeであると同時に(・・・・・・)、publicでもあるようぜひ要望したい」とした。ただ最終的に、キャンベル氏は「基本的に二元論で考えることではなく、正義を見つけることと存在の尊厳を見つけることの間には、一つの橋渡し、あるいは桟橋のようなものがある」とも述べていた。
これらのやりとりを聞いて、再びヴェイユが思い出され、まさに彼女こそ、キャンベル氏のいう「橋渡し、桟橋のようなもの」が見出せると思われたので・・・」
「キャンベル氏のいう「正義を見つけることと存在の尊厳を見つけることの間にある橋渡して」とは、ヴェイユによれば、「存在の尊厳を見つけること」が先立って行われ、その結果として「正義」が見出せるようになり、二つの間の橋渡しがかなうということになるのである。」
「リベラルアーツで試みたいのは、教師が正義を伝える(・・・)ことでもなければ、「できること」(権利の主張)を性急に行わせることでもない。それは(・・・)往々にして「他人を球団するために便利な道具としての権利」を教えることになってしまう。リベラルアーツが目指すものはそれではない。リベラルアーツが行おうとするのは、祈るしかできないことに耐えること、すなわちいますぐには答えのない問いに延々と留まり続け、ひたすら他者に注意を傾けることである。そして、ことばが発せられたらそれを聴き、「大きなミットで受けとめ迎え入れること」である。」
思い出すのは、ヴェイユが死の間際にとって行動である。彼女は死の直前の約三ヶ月間を病室で過ごしたが、自らの死を予感しながら最後に何をしたかというと、彼女は以前から興味があり触れたことがあったサンスクリットの勉強を、再開したのだった。(・・・)
他者のことばであるサンスクリットを読むことこそ、彼女にとって死を迎えるにあたって最もやりたいこと、やるべきことだったのである。すなわち、滅亡に向かいつつ自分と異なるものに尊厳を見出し、これから自分が滅んでまさに一体化してゆく、この世界、この宇宙への愛を確認する、その具体的方法が外国語であったということである。」
「運命づけられた死や滅亡に対する謙虚な深い受容があれば、それは残された生を善く生き、善く滅びたいという願いとなる。そうした欲求はわれわれには根源的にある。まさにヴェイユが最も信頼していたのは、われわれの精神、知性の根本にある人文知の倫理的基盤であり、それは善く生きたい、善く滅びたいという人間の根本的欲求への信であった。」
(石井洋二郎「倫理としての想像力————「あとがき」に代えて」より)
「昨今はネットにあふれる誹謗中傷のたぐいがしばしば話題になりますが、他人の痛みを顧みない無神経な言葉がパソコンやスマートフォンの画面をわがもの顔に飛び交う現状を目にするたびに、抑えようのない苛立ちを覚えるのは私だけではないでしょう。本来は情報の真偽や信憑性を最も慎重に吟味しなければならないはずの「学者」と呼ばれる人たちの中にさえ、基本的な事実確認もせずに無根拠な憶測や浅薄な曲解をまき散らして恥じない例が散見されるのですから、状況は思った以上に深刻です。
そうした人たちの胎内には、おそらく「正しさ」という病が巣くっているのではないでしょうか。
これはけっして他人ごとではありません。特定のイデオロギーに染めあげられた主義主張を唯一絶対の正義として指定してしまった瞬間、私たちは誰もが「もしかすると自分のほうが間違っているのかもしれない」と客観的に振り返ってみるだけのバランス感覚を失い「自分は絶対に正しい」という確信から一歩も踏み出すことができないまま、「間違っている」他者を一方的に断罪しかねない危うさを抱えているからです。自らの言葉を適切な高度に保ちながら安定飛行を続けることは、それだけ困難な、大きな負荷を伴う営みであるということでしょう。」
「悪意のなさこそが、ともすると差別的構造の固定化に加担しかねないという陥穽にたいしては、いくら敏感であってもありすぎることはないでしょう。見せかけの包摂は事実としての排除を隠蔽し、多数者の正義をひそかに延命させてしまいます。上から目線の善意の押しつけではなく、文字通りに対等な立場で多様性を認め合うとはいったいどのようなことなのか、そしてそれはどうすれば可能になるのかということを考えるためには、まず私たちが何の気なしに口にしがちな「共感」や「寛容」といった言葉にたいする繊細な感性を研ぎ澄ます必要がありそうです。」
「複数の言語が話せるということが重要なのではない。ただひとつの言語しか話せなくてもかまわない、なぜならどんな言語にも必ず「詩」が宿っているのであり、これを介して他極性・多様性へと開かれていく契機が秘められているのだから————この指摘は、多様性というものがかならずしも複数性の中にあるのではなく、単数性の中にもありうるということ、あるいはより正確にいえば、数とは無関係に、あらゆる言語に内在する普遍的な本質(・・・)として立ち現れうるものであるということを示唆しているという意味で、本書のテーマとも期せずして通底しているように思います。」