ハンス・ブルーメンベルク「真理のメタファーとしての光」/樋笠勝士「プロティノスにおける光と形而上学」(山内志朗編『光の形而上学 知ることの根源を辿って』)
☆mediopos3260 2023.10.21
ドイツの詩人ゴットフリート・ベンは
「星だって? そんなものはどこにあるのか?」と
大都市に暮らす現代人の叫びを詠っていたそうだが
現代において「照明」とは
光学によるイルミネーションでしかなく
光の形而上学の「観照の自由」における「照明」とは
対極に位置している
現代人にとって「光」は
「光」そのものは見えないにもかかわらず
「光」によって照らし照らされる存在者たちを
形而下的(物理的)に
「見る」ためだけのものとなっている
たとえ夜空の星を見たとしても
それらの星は物理的な天体としてのそれでしかない
ギリシア哲学において
「光」を真理への道として
一元論的にとらえたのはパルメニデスだが
「光」のメタファーを
存在と真理の関係の「自然性」として導入したのは
『国家論』における洞窟の比喩のプラトンであり
それは「万物を照らす存在の光の源」である
「善のイデア」が
「太陽」として具象化されたものだ
プラトンにおいて
「光」は「超越」的な性格をもっているが
それはヘレニズム期において
「形而上学的な極へと対象化され
グノーシス主義にみられるように
光と闇は敵対し合うものとなる
新プラトン主義のプロティノスにとって
「光」とは「「見る」の相関者」であり
「「光によって何かを見る」と
「光を見る」は全く異なる認識」
としてとらえられているが
さらにそれは
「光によって光を見る」
「神である」という
「三人称的な認識論的概念操作とは無縁の
一人称体験的な「光」概念」として示唆されている
つまりその「光」は対象化されない
超越的な「一」なるものなのである
さてゲーテは
「眼が太陽のようでなかったら、
どうしてわれわれは見ることができるのだろうか?
我々の中に神自身の力が宿っていなければ、
神はどうやって我々を喜ばせることができるだろうか?」
と示唆しているが
ここでいわれている「光」は
形而下の光であり
同時に形而上の光でもあるだろう
わたしたちが「見る」のは
物理的には光そのものではなく
光によって見えるようになったものを見るのだが
「見る」(視覚を超えた広義の意味でも)ということは
わたしたち一人ひとりのなかに
「見る」ための「太陽」が存在しているということ
つまり「光」が存在しているということにほかならない
神秘主義的な「光」は
内的な闇の中に見いだされる「光」だが
その「光」は同時に
外的な「存在者」にも見いだすことできてはじめて
ほんらいの「光」となることができる
そしてそれによってこそ「闇」もまた
「光」とともにあるものとして
変容していくことができるのではないだろうか
内にも外にも
「もっと(闇とともにある)光を」である
そんな「光」を失ったとき
いかなる「真理の光」からも閉ざされたまま
たとえ見たとしても
即物的な死んだ光と化してしまうことになる
■ハンス・ブルーメンベルク「真理のメタファーとしての光」
ハンス・ブルーメンベルク(村井則夫編訳)
『真理のメタファーとしての光/
コペルニクス的転回と宇宙における人間の位置づけ』
(平凡社ライブラリー 2023/10)
■樋笠勝士「プロティノスにおける光と形而上学」
山内志朗編『光の形而上学 知ることの根源を辿って』
(慶應義塾大学出版会 2018/2)
(ハンス・ブルーメンベルク「真理のメタファーとしての光」より)
「光の概念は、古くはパルメニデスの教訓詩の第二部で知られているような、あるいはアリストテレスの証言ではピュタゴラス派のものとされる二元論的な世界理解に帰属するものである。光と闇は、火と地と同じく、元素としての根源的原理である。それらが敵対し合うことで、存在は盤石ものもではなく、真理は自明なものではないことに気づかせる。しかしパルメニデスがこの二元論を教訓詩の第二部に据えたことが、すでにその克服を暗示している。二元論は臆見(ドクサ)の領域の特徴である。詩の劈頭(はじめ)では、真理への道は「光」に向かっている。その詩の中心箇所でパルメニデスは、存在と非存在、真理と仮象、光と闇の人間論を根こそぎ消し去ってしまう。存在が語るのは、非存在ではないという理由によるのではない(そうだとしたら、存在が在るためには非存在が不可欠ということになってしまうだろう)。光は闇との対立を本質としているわけではなく、光が本領を発揮したときには闇は廃絶され、克服される。ということは、存在・真理・光などの概念をそれらの対蹠物〔非存在・偽・闇など〕との二元論的対立から解き放って独立させたのは、なにもプラトンがはじめてというわけではないということになる。とはいえ、〔存在と非存在などの〕これらの二項分化から引き出せる帰結を光のメタファーによって明らかにしたのはやはりプラトンを嚆矢(はしり)とする。光のメタファーは、存在と真理の関係の「自然性」として表現される。すなわち存在は、(その対蹠物に頼るのではなく)おのずから「自然」であり、また(非真理の状況から存在を発見する思考があとから現れることによるのではなく)おのずから真である。真理は存在そのものに付随する光であり、光としての存在である。要は、存在とは存在者の「自己呈示」にほかならない。それゆえ最高形態の認識は、活動を欠いた静観、つまりは観照(テオーリア)から発する。だからこそ、プラトンのいう想起(アナムネーシス)では、魂の出生事前に観取された真理が、その起原が忘却されていようとも変わらず輝き出るものとされている。『国家』の洞窟の比喩ではそのため、洞窟の出入りというものがたりは、自然の光から人工的かつ強引に隔離された状況から始まる。この物語はけっして二元論的なものではないが、あとになってまた二元論的構図へと引き戻されることになる。真理のドラマは、光と闇の宇宙論的闘争ではなく、ただ人間の自己陶冶、あるいは自己開示のプロセスであり、その意味で教育(パイデイア)の問題である。真理はただ現れるだけでなく。こちらに迫ってくるのである。
プラトンの洞窟の比喩では、善のイデアは万物を照らす存在の光の源、すなわち太陽として具象化される。その善のイデアは、認識・存在・実在の根原ではあっても、それ自身が存在者ではなく。その尊厳と力は存在者を凌駕するものとされている。この言い分はさしあたり形而上学的な意味合いをもつものではない。他のあらゆるものを可視的にして対象化する当のものは、それ自身は同様の意味で対照的であることはできない。光は、それに照らされて見えるようになった事物があってこそ見えるようになる。光は事物が見えるようになってはじめて、光としての意味を発揮するが、光それ自身は、光が照らし出すものとは次元を異にするというのが、光の「自然性〔本性〕」というものである。しかしすでにプラトンにおいて、この「差異」は「超越」の性格を帯びている。光の形而上学は、光のメタファーを基盤とするのである。真理の「自然性」という言い方はその反対のものに転じてしまい、真理は超越の「場を占める」。ギリシアの宗教は、あれほど多くの自然の神々を有しながら、光の神というものを知らなかった。それというのも、ギリシア人の感覚にとって光はあまりに包括的で、とても把握できるようなものではなかったからである。
(・・・)
「照明」とは、外的生起に対立する内的生起ではない。存在的な開明と存在論的な開明は同一なのである。プラトンには光の神秘主義は存在しない。光はなんら、経験の独自で特殊な次元ではないからである。」
「新プラトン主義にあっては、光と闇は敵対し合う二大勢力となる、魂をめぐって互いに闘い、暴力を揮い、魂を自らの方に拉し去り、「ひとつになろう」とする。」
「太陽の比喩においてプラトンが提起した光の超越性は、ヘレニズム期の思考にとって一般的となる。媒体である宇宙(コスモス)のうちに充満していた明るみは、一点に引き戻され、凝集することで、形而上学的な極へと対象化される。光の照射は、下降するものとなり、闇へと消え去り、光の充溢は消耗に変わる。洞窟の「不自然」な隔離は宇宙全体に拡がり、宇宙が洞窟の性格を帯びて光を奪い、呑み込み、無力化する。かつて光を透過した天球は、厚みを増して洞窟の壁となる。世界の外部に移された純粋な光は、もはや清浄な静観である観照(テオリア)の境地へと導くものではなくなってしまう。観照の境地へいたるには、この世ならぬ忘我体験(エクスタシー)への転向が必須である。その体験では、心安らぐ触れ合いと、目を背けずにはいられない閃光がひとつになる。」
「宇宙からの光の退去が、光を求める人間の衝動を惹き起こす。この考えからは、古代末期の新プラトン主義、およびグノーシス主義への道が直接に繋がっている。ここに及んで古典的な観照は確たる基盤を失ってしまう。存在はもはや存在者の自己呈示ではなく、「形なく見えないもの」となる。存在は目を開かせるのではなく、目を閉じさせる。絶対的な光と絶対的な闇が、ここではひとつに融合する。さらに進めてディオニソス・アレオパギテス(五世紀頃)は、あらゆる神秘思想の定型句となる「神の闇」なる表現を生み出すにいたる。」
「ヘレニズム期のさまざまな学派の方向性は、共通の存在論敵内実を基盤としてながら、複雑に絡み合っていた。この点はキケロ(前一〇六−四三年)を見ると判然とする。キケロはこの伝統に合わせて、「自然の光(ルーメン・ナトゥラーレ)なる造語を作り出した。そして光のメタファーを内的な道徳的自明性と結び合わせたのである。キケロにとって光はもはや、すべての存在者がひとしく照らし出される普遍的な明るみではない。むしろ光には、一種の人間中心的な配分(エコノミー)が施される。理論的な領域では、「真理らしさ〔蓋然性〕」という程度の光の輝きで十分というわけである。(・・・)これ以上を望むのは「傲慢」であり、真理の目的論的な配分を軽視するものである。「配分」に応じて人間に与えられた光の外部では、闇が支配している。」
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「光の超越性が一方にあり、他方にその光の内面化があるという話だった。この移行は、光のイメージのメタファー的使用から形而上学的使用へと転換を示している。」
「光のメタファーはグノーシス主義の二元論と結びつくとはいえ、それはキリスト教による光のメタファーの受容を抑制はしても、阻止することはなかった。アウグスティヌスが一方で自由概念を展開し、他方で世界は〔質料からではなく〕「無から(エクス・ニヒロ)」創造されたとする創造思想を厳密に練り上げることで二元論を無力化し、「照明(イルミナティオ)」の考えをキリスト教において正当化する最終的な道を拓いた。(・・・)
アウグスティヌスは、マニ教徒たちが「神そのものである光と、神が作った光を区別していない」といって非難している。神はただ単に光なのではなく、「光を生む光」なのである。アウグスティヌスは、絶対的な光から可知的光を通って可感的光へと流出していく存在の光の連続性を採用せず、一連の完結した大思想〔新プラトン主義的流出論〕を棚上げし、創造されない光と創造された光、また「われわれが認識する際の」光と「われわれが知解する際の」光を形而上学的に区別するよう求めている。われわれの言い方に直すなら、アウグスティヌスは「光の形而上学を光の隠喩法(メタフォーリク)に連れ戻した」のである。」
「「照明(イリュミネーション)」の技術的な光によってあの手この手で違和感のある光学を押し付けられるところから、現代の人間は、古代的な「天の観照者(コンテンプラトル・カエリ)」、および観照の自由とは、歴史的には対極に位置する。現代では、いまだひとつとして星を正視したことのない人間が存在する。「星だって? そんなものはどこにあるのか?」————これは大都市に暮らす現代の抒情詩人の、信じるに足る不信の叫びである。」
(樋笠勝士「プロティノスにおける光と形而上学」より)
「「光」は「見る」の相関者である。「光によって何かを見る」と「光を見る」は全く異なる認識である。プロティノスが太陽の例を一性として示すとき、彼は「太陽を見る」で考えている。そこには部分がなく一体的であるという認識結果を得る。この結果は、「光」を対象化して得られたものであるから、言語化も可能であり説明能力を備えた言説をつくりだす方途があることは明かである。しかし、その「光」の言説は依然として「光」を対象化したままのものである。他方で、「見る」によって対象化されたものを示す対格が、もはや対格の実質を失うとき、つまり、そもそも「純粋で単一」「すべてが取り去られている」「光によって光を見る」「神である」という出来事のときは、それが主格形式の観照を脱している以上、既に「光を見る」ではなく「光である」という事態であり、言い換えれば「一」なのである。ここには、少なくとも三人称的な認識論的概念操作とは無縁の一人称体験的な「光」概念がある。これは「無限定なるもの」というべきものであり、「無限定なるもの」においては(これより後に派生する事物は語ることで限定できるが)それ自体「どれでもない」という、否定の言説しか成立しないのである。ここにこそ、「光」において「無限」「無知」「闇」「無」を見いだす思想の淵源があると言うことができるであろう。」
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