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モーテン・H・クリスチャンセン・ニック・チェイター『言語はこうして生まれる/「即興する脳」とジェスチャーゲーム』

☆mediopos-3015  2023.2.18

言語はどのようにして生まれるのか

それについて長年の研究の結果
「ジェスチャーゲーム(言葉当て遊び)」によって
人間は即興で言葉を生みだし
そのゲームが繰り返されることによって
言語の体系も生まれてきたというのが
基本的な本書の視点である

その視点は
ノーム・チョムスキーの提唱した
人間の言語はすべてそのバリエーションであって
ひとは生まれながらにその「普遍文法」を知っている
という考え方への反論であり

さらにその後
進化論の観点から
スティーヴン・ピンカーによって
ひとは自然淘汰の結果「言語本能」を持っている
という考え方が反論として提唱されている

たしかに「ジェスチャーゲーム」の観点は
実際に言語がどのように習得されるかについて
説得的な考え方であることは間違いなさそうである

「普遍文法」や「言語本能」ということだけで
言語習得の実際を説明することはむずかしい
言語習得を行うためのプロセスが必要だからである
それは言語と関連して獲得される
思考能力の獲得などにおいても同様である

しかし「ジェスチャーゲーム」によって
言語習得がなされ得るための基礎条件が
人間の潜在能力のなかになければ
言語を習得することはできない

ある意味で「普遍文法」や「言語本能」につながるような
そしてそれらを生みだし得るような
潜在的な「言語感覚」とでもいえるものが
人間には生得的に存在していることが前提となる

シュタイナーの「十二感覚」の考え方には
「言語感覚」「思考感覚」「自我感覚」といった感覚が
五感以外にも存在していることが示唆されているように

「言語感覚」が発現し得る身体条件や
言語習得を可能にする環境によって
言語は「ジェスチャーゲーム」によって習得されてゆき
それが言語体系のような形となると考えることもできる

しかしその際にやはり問われる必要があるのは
その「言語」とは「思考」とは
さらには「自我」とはいったいなんなのか
そもそもそうしたことで生みだされ
共有される「意味」とはいったいなんなのか
といったさらに根源的なことではないかと思われる

■モーテン・H・クリスチャンセン・ニック・チェイター(塩原通緒訳)
 『言語はこうして生まれる/「即興する脳」とジェスチャーゲーム』
 (新潮社 2022/11)

(「序章 世界を変えた偶然の発明」より)

「現実の言語は、混じりけのない整然とした言語体系の少々乱れた異形なのではない。むしろ言語は即興の連続であるというのが実体で、どうすればその場のコミュニケーション上の必要を満たせるかを探っていくことが言語の基本なのである。人間は遊び心があって比喩を得意とする創造的なコミュニケーターで、そのコミュニケーションの過程で発せられる単語がやがて初めて一定の意味を帯びるようになる。文法の比較的安定した規則性についても、これは出発点ではなく結果であり、無数の世代がコミュニケーションという相互作用を重ねるうちに、言語パターンが少しずつ固まっていく。」

「現代の話し言葉はいかにも猥雑で、無秩序で、規律に反しているように思えるが、これはなにも完璧な理想型が崩れたかたちで表出しているわけではない。それどころか、わけがわからないほど複雑で、いくつものパターンが互いに作用したり重複したりする、言語の「ブリコラージュ(訳注:ありあわせのものを集めてやりくりする手法)」的な特性は、過去の歴史から築かれたものである。これまでになされてきた無数の会話によって、現在の洗練された言語体系が徐々に、意図せずして、つくりあげられてきたのである。言語秩序の自然発生的な出現は、それこど生命の出現と同じぐらい驚異的な物語なのだ。」

「言語はジェスチャーゲーム(言葉当て遊び)のようなものだ————というのが本書の提案である。その場の要請にもとづいて、プレーヤーどうしの共有する歴史を頼りになされる一回一回のジェスチャーゲームがゆるやかに結びつき、果てしなく蓄積されていく————そのようなものが言語なのだ。ジェスチャーゲームさながら、言語は絶えず任意の瞬間に「発明」されては、またゲームをするたびに新たに発明される。」

「言語の学習とは、共同体全体で果てしなく行なわれている、過去からえんえんと積み重ねられてきたジェスチャーゲームに参加することを学ぶようなものだ。新世代の言語学習者はゼロから出発するわけではなく、誰も思い出せないころから進行してきた言語ゲームの伝統に参加するのである。このゲームに参加するには、子供でも第二言語を学習する大人でも、言語ゲームに飛び込んで遊びはじめる必要がある。そうして特定のコミュニケーション課題を一つひとつ、徐々に習得していく。

 言語を学習するということは、ジェスチャーゲームの達人になる過程を学習するということだ。言語ゲームを上手に学ぶには、人間どうしの日常的なやりとりをうまくこなせるようになる必要があるだけで、抽象的な文法パターン大系を学習する必要はない。実際、人は言語のルールを知らなくても会話をしている。物理法則を知らないままテニスをしたり、音楽理論を知らないまま歌をうたったりするのと同じである。まさにその意味で、人は言語のことなどまったく知らないままで話をしているし、しかも非常にうまく、効率的に話をしている。」

「言語はおそらく人間の最大の達成だ。とはいえ、これは誰が設計したのでもなく、優れた先見の明によって創造されたのでもない。言語は一連のコミュニケーションゲームをすることのできる人間ならではの能力の所産である。人間は日常のやりとりのなかで、ただその場のコミュニケーション上の課題を解決していこうとしているだけだ。しかし時間とともに、たくさんの出会いと会話を通じてコミュニケーション大系が浮かびあがってくる。人間の最も重要な発明は、じつは一種の副作用のような、意図せずしてあらわれた、無数の偶然の集まりなのである。」

「本書は、言語がコミュニケーションの一回一回のやりとりを通じてじわじわと出現するという考えを論じたものである。そして本書のアイデア自体もまたじわじわと、われわれ著者はこの三十年、ともに言語研究をするなかで交わした一回一回の対話を通じて浮かんできたものである。」

(「第五章 生物学的進化なくして言語の進化はありえるか」より)

「識字能力は文化的な産物で、これを支えている脳の特別な領域は、人が読むことを学ぶにつれて徐々にできあがる。言語もまた、文化的に進化した技能である。話すこと、手話することを学ぶにつれて発達し、、徐々に言語機能に特化していく既存の神経機構に依存する。エリザベス・ベイツがいみじくも言ったように、「言語は古い部品から組み立てられる新しい機械で、すべての人間の子供によってそれらの部品から再構築される」。

 だが、子供はどうしてそんなことができるのだろう。言語の進化が繰り返しの言語ジェスチャーゲームの大規模で成り立っているのなら、子供は正しい答えの当て方をどうやって知るのだろう。普遍文法の観点にしたがえば、子供が正しい答えを当てられるのは、言語が遺伝子に組み込まれているからだ。しかし、もしそのような生得的な言語知識がないのなら、子供がこんなにも迅速に、こんなにも容易に言語ジェスチャーゲームを遊べるようになることには、何か別の説明が必要になる。はたして、言語学習が言語進化と出会うと何が起こるのか。

 先に言ってしまうと、その説明は驚くほどシンプルだ。言語学習はそれこそ子供の遊びのように簡単なのである。なぜなら言語は人間に学習されるよう、とくに子供に学習されるように進化してきたからだ。言語学種が同じ脳と同じ認知技能を備えた過去の何世代ものを人間からそれを学習しているからである。(・・・)言語学習が可能なのは、コンピューターや地球外生命によってつくられた抽象的なパターンや意味の一式を学んでいるのではなく、自分とまるで同じような過去の学習者を踏襲することによって学んでいるからなのである。」

(「終章 言語は人類を特異点から救う」より)

「なるほどコンピューターは、チェスでも囲碁でもほかの多くのゲームでも人間に勝てる。しかし本当に重要なゲームは、人間が言語を使ってプレーする工夫にあふれた創造的なゲームである。このゲームにかけては人間が抜群だ。AIシステムは、これが下手なのではない。そもそもプレーのしかたを知らないのである。それを覚えるまでは、人間の知能のコアにある言語的即興にはとうてい手が届くまい。」

(「訳者あとがき」より)

「言語の来し方についての探求には長い歴史がある。かつての西洋のキリスト教徒は、聖書に起源を求めた。神がアダムにすべての生き物の名前をつけさせたとか、バベルの塔に怒った神が言語をばらばらにしたといった記述があるからだ。後年、科学が発達するにつれ、さすがに最初の記述がそのまま信じられることは少なくなったが、それでも西洋の人びとのあいだには、たった一つの、おおもとの言語があるという考えが根づいていた。ではその言語はなんなのか、という「言語起源学者」の議論がうるさくなりすぎて、十九世紀には言語学会でこのテーマそのものが禁止されたというエピソードもある。

 そうした背景のもと、二十世紀に出てきた画期的な概念が、ノーム・チョムスキーの提唱した「普遍文法」だった。人間のあらゆる言語は単一の諸原則————普遍文法————にのっとっていて、世界中のさまざまな言語はすべて普遍文法のバリエーションであり、人間の子供が生まれながらにしてこの普遍文法を知っている、という考えである。チョムスキーのこの考え方は、言語学研究にとてつもない影響力をおよぼした。

  その後、スティーヴン・ピンカーがこのチョムスキーの普遍文法を、進化論の観点から説明した。人間の言語能力はひとつの生物学的適応であり、自然淘汰の結果として人間の遺伝子に組み込まれた、いわば「言語本能」であるという説だ。この考えもまた言語学研究に深く影響を与え、スタンダードとして定着していった。

 言語学におけるこのような歴史を経て、本書の著者二人が学生だった時分には、このチョムスキーとピンカーを代表とする言語生得説がすでに主流を占めていた。著者二人は、これに対してどうにも懐疑的な思いがあったという。(・・・)

 そしてあるとき、ふと、あるアイデアが二人の頭にひらめいた。キーワードは「ジェスチャーゲーム」だ。自分の言いたいことを即興の身ぶり手ぶりで相手に伝え、こちらの意図をどうにか正しく汲み取ってもらう遊び————これこそが言語の起源ではないかと思いついたのである。(・・・)

 この視点で言語を見れば、いまだ決着していないさまざまな疑問にも、新たな説明をつけられるのではないか————という着想のもとに、著者二人が長年かけて検討し、実地に研究し、蓄積してきた言語のさまざまな面についての考えが、本書で明瞭かつ軽快に綴られていく。」

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