養老孟司 (著)・海野和男(写真) 『虫は人の鏡/擬態の解剖学』
☆mediopos-2500 2021.9.20
人は生まれると
まずじぶんのまわりにいるものを
模倣しながら育っていく
アナロジー思考というのがあるが
思考はそもそもアナロジーをベースにしている
というよりは
思考が育つ以前に
人は模倣して育っていき
その模倣から思考が育っていくといってもいい
人は動物や昆虫などと比べて
生まれたときにすでに決定されている
本能的なプログラムが比較的ゆるくできているので
生まれてからの模倣が
個体的なレベルでの成長にとって重要になるが
自我が育っていくにつれて
模倣を超えた個体レベルでの思考も生まれてくる
それは模倣を超えたというよりも
まわりにいるものへの模倣が
別のレベルでの模倣へと移行する
ともいえるのかもしれない
最初は身体レベルでの生命的な模倣から
感情や思考レベルでの模倣へと移行し
さらにより高次の模倣へと移行してゆく
虫の擬態を見ていると
形態を驚くほどに模写するには
どんな「意識」が働いているのかが気になるが
それはたんなる適者生存というようなものでもなさそうだ
やはり集合レベルでの意識が
形態と機能をプログラミングしていると考えたくなる
養老孟司氏によれば
虫の擬態は
「モデル」「真似る者」「だまされる者」
というたんなる三者関係だけではなく
それに「それを見るヒト」を加えた
「四者関係」の中で起こっているという
虫の擬態はもちろん種のレベルでの形態模写だが
人間のそれは個のレベルでの模倣・アナロジーである
人間のそれにもまた「四者関係」があるだろう
「みずからの模倣・アナロジーを見る自己」
が加わった「四者関係」である
人の身体や思考・感情・自我や
さらにそれを超えた意識には
それぞれが「擬態・模倣」する元型がある
虫の擬態を見ていると
自然に存在しているさまざまなその元型があり
自然を超えたものの世界に存在している
またさまざまなその元型がある
人間の感情は
かつてわたしたちのまわりにいた神々たちが
内面化したものだとも神秘学的にはいわれるが
それもあるレベルでの元型の擬態・模倣であり
自我もまた神的世界にある元型を
擬態・模倣しようとしたものであるともいえる
キリスト存在が人間の雛形ともなっているというのも
そうした意味でとらえることもできる
自然と人間
霊的世界と人間
それらの関係をとらえるとき
「擬態・模倣」という観点から
照らし出してみるのも面白そうだ
■養老孟司 (著)・海野和男(写真)
『虫は人の鏡/擬態の解剖学』
( 単行本(ソフトカバー) – 2020/12/19
(「00 なぜ虫か」より)
「どうして「虫なんか」に興味を持つのか。生まれてこのかた、何度それをきかれたのかわからない。しかし、虫が好きなのは、私だけではない。ここの写真を撮っている海野和男氏は、私よりももっとひどい。写す対象もいろいろあろうに、虫専門の写真家だからである。
なぜ虫が面白いか。まずなにより形と色。さらにその多様性であろう。そもそも虫専門門の写真家がいるということは、そのことを示している。もはや凝るしかない。ただ相手が小さいうえに、むやみにいろいろな種類がいるから、つまり多様だから、ふつうの人は、面白いもなにも、どう考えたらいいか、わからなくなるらしい。
生物の多様性は、多くのナチュラリストを引きつけてきた。というより、生物の多様性に魅かれた人たちを、ナチュラリストと呼んだ。そう言ったほうがいい。」
「好き嫌いは、理屈ではない。好きなものは仕方がない。同様に、嫌いなものは仕方がない。お釈迦様も、縁なき衆生は度し難し、と言われた。
もちろん、この「嫌い」にも程度がある。」
「好き嫌いはともかく、虫に興味を持たない人も多い。そんなものに興味を持って、なんの役に立つか。金も儲からないじゃないか。」
「虫好きが多いかどうか、これはおそらく文明の発展段階と、微妙に関係している。都市文明が進んでしまうと、虫にまったく興味のない人が増える。虫を含めて、自然が消失するからである。頭のなかから、自然が消え、虫が消えてしまう。」
「虫が現にいて、しかもそれを相手にする余裕がある。そういう時代、つまり野蛮から文明への移行過程でなければ、たぶん虫好きはそれほど生じない。」
(養老孟司 ×海野和男「対談 偶然か必然か」より)
「養老/擬態の写真なんか見せられると、真面目な解剖学者は嫌がるんですよ。生物の形が出来てくるには、形が作るロジックがあると専門家は思っているから、嫌になっちゃうんですね。勝手に変わりやがってなんて言いながら(笑)。擬態というのはいまだに大問題なんです。似ているのはすべて偶然で、人間が「似ている」と判断しいているだけだと、頭から信じない人は随分いますね。
海野/それはまあ、人間が判断しているわけですが、だから誤りであるというのはおかしな話でね。昆虫のやっていることは実は、人間にとても近いんです。チョウなんかもそうだし、さらに擬態になると非常に人間臭い。人と虫は形態的にはえらい違いですけれど、遺伝子はさほど違わないという話ですし、私たちの価値観が、虫の中にあってもいいと思うんですよ。(・・・)人間には見えない虫の美しさがまだあると思うんです。私たちの方が、昆虫より遅れている部分だってあるはずなんでね。
養老/人間の脳がやっていることと、昆虫がやっていることは現象的に非常にうまく重なるところがあるんです。人間が脳でやっていることを、虫は遺伝子でやっていて、全然違うということは本能的にはわかってるんですよ、人間の脳では。だけど、頭も使っていないのにこんなことをしていやがるというところがね(笑)。逆に言うと、脳も遺伝子も同じように自然界の中で進化してきたものですから、恐らく同じような原理を持っているはずで、その重なりが面白くてしようがない。
海野/脳の進化を調べていくと、大昔からの昆虫の進化がわかるようなこともあるかもしれませんね。
養老/ええ。条件の重なりといった意味で面白いと思いますね。だから、擬態というのは一番のキーポイントであり、根っこにある問題だと思うんです。擬態というのは、モデルがあって、誰かが真似をするわけです。これを、例えば鳥なら鳥が見てだまされるという構造になっていて、これは三者関係ですね。いわゆる従来の科学だとここで切っちゃうわけです。僕はここに人間を加えて、四者関係で擬態を考えてみたいんですね。擬態はそもそも不思議な現象なわけです。その、不思議だと思う自分の脳も含めて考えようとするものだから、整理しにくくて、往生してるんですが(笑)」
(「021 虫とヒト」より)
「擬態はゲノムのすることなのに、脳がすることにソックリである。もちろんそれは、神経系の機能の反映だからである。脳はそこに自分の秘密を見る。十九世紀およびそれ以前の科学者たちは、虫がする本能的行動を見て感嘆した。これこそ神の設計にほかならない、と。かれらは進化を知らなかった。だから、本能のほうが先で、神経系がそれに従って形成されたことに気づかなかったのである。かれらは虫を見て、本能を発見したつもりだったが、発見したのは、自分自身の出自だった。いまでもそうは思っていない人は、たくさんいるはずである。脳はなにか特別で、心というはたらきを示す。虫は馬鹿の一つ覚えをくりかえしているだけだ、と。
私が虫なら、ヒトを笑う。あいつらのやっていることは、われわれが何気なく、何の苦労もなくやることを、さんざん考えて、やっとの思いでやっているに過ぎない。それでもなかなかうまくいかないで、年中ぼやいているではないか。なぜ、あんな馬鹿なことをするのか。同じ生きていくなら、われわれだって、ヒトと同じ年数を生きてきた。こういう生き方があることを教えてやりたいよ。
脳の基本的な機能は、アナロジーである。それはすなわち、真似ることである。あるいは並行した回路を形成することである。生物が原始的な神経系のなかに、進化の過程で試行錯誤して作り上げた回路は、われわれの合目的行動に、基本的に利用できる。そうした利用が、まさにアナロジーなのである。
擬態はやはりアナロジーの一種である。だからわれわれは、そこに自分の脳のはたらきを見る。だから私の場合は。擬態を見ると、ついヒトの社会を考えてしまう。ヒトの社会には、いわば擬態は蔓延している。それは、社会がヒトの脳で作られるからである。
こうして考えていくと、対象がなんであれ、結局私たちにものを教えてくれてきたのは、自然だということを知る。
その自然は、見ようとする気持ちさえあれば、なにもテレビやインターネットの中だけではなく、皆さんの周辺にいくらでもあるはずである。」
《目次》
00 なぜ虫か
01 カモフラージュ
02 警戒色
03 トラが出る!
04 目玉模様
対談 偶然か必然か
05 オーストラリアの虫
06 アフリカの虫
07 メタリック
08 気味が悪い
09 堅い虫
010 死んだふり
011 ダマシとモドキ
012 似る努力
013 不思議な形
014 蝶の斑紋
015 キノコムシ
016 雄と雌
017 つがいと子育て
018 普通種
019 どこにでもいる虫
020 雑木林の虫
021 虫とヒト