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向井周太郎『デザイン学 思索のコンステレーション』〜「アブダクション」/鶴見俊輔『アメリカ哲学』〜「パースの意味」/『坂部恵集1 生成するカント像』

☆mediopos3626(2024.10.23.)

向井周太郎『デザイン学』は
大学退任の際に基礎デザイン科で行った
最終講義の書籍化だが
(2009年に刊行されている)

著者がデザイン学を生成してきた方法の
「コンステレーション(星座・布置)」を
意識化し問題提起としたものだという

その内容は柏木博による評言を使っていえば
「根源への遡行、形象を想い描く力、
世界生成のプロセス・・・・・・、
それらをめぐる静かな思索の連鎖」であり
それが「星座」として現されている

その最初に置かれている「星」である
「アブダクション————
 生成の根源へ、制作(ポイエーシス)の地層へ」
という章から
パースの記号論とアブダクション
そしてカントとも関係する構想力についてとりあげる

パースは伝統的な論理学における
推論の二分法である「演繹」「帰納」にさらに
発見の論理とも創造の論理とも呼ばれている
「アブダクション」(仮説形成/仮設的推論)を加え
それを第一に位置づけ「三分法」とした

日本で最初にパースを紹介したのは鶴見俊輔で
その著書『アメリカ哲学』のなかでは
アブダクションを「構想」と呼んでいるが

向井周太郎は『デザイン学』の論考全体が
そのデザイン学の「仮説形成」であり「構想」である
「アブダクション」であるとしている

パースは
「アブダクション」はより適切にいえば
「レトロダクション」だともいっているが
それは「根源へと遡行していく、源へと立ち返っていく」
「自然の根源へ、いのちの根源へ、
生命の根源へ戻りなさい」ということにほかならない

またパースは
「アブダクション」はカンシーヴ(conceive)である
ともいっているが
それは「コンセプション(conception)とつながる言葉で、
想像する、構想する。イマジネーション」を意味し
もともとは「孕む」「受胎する」ことであり
「イメージやアイデアを受胎するということ」につながる

パースが哲学をはじめたのはカントの研究からで
「アブダクション」を三分法の第一に置いたのは
カントの「構想力」(Einbildungskraft)が
少なからず影響しているという

「構想力」とは「像を想い描く力」「形象を想い描く力」で
イマジネーション(imagination)の訳語としての
「想像力」という語に対応している

カントの「構想力」は
当初『純粋理性批判』第一版における「注」において
「諸印象を総合する一つの機能」として位置づけられたものの
第二版からは後退させられることになったが

その「構想力」はパースと同様
「のちのロマン派の哲学者からハイデッガー、
三木清にまで大きな影響を及ぼし」ているほどだ

向井周太郎はパースの記号論について
通常の言語以外にも
イメージ的な言語・身振り言語・視覚的な図的言語など
「前言語的なことば」もふくめ統合的に捉えることで
「生命的な感覚とつながる根源的な前言語にまで遡行した
全的な言葉の世界を再建しようとしたのではないか」という

パースはその哲学を
「現実の生に根差した実践的な行為の哲学」という意味で
プラグマティズム(pragmatism)
(後には、プラグマティシズム(pragmaticism))
と名づけているが
それはまた
「デザインという行為にもっとも即した哲学の一つ」
でもあるという

制作行為(ポイエーシス)にとっては
「直接的に対象や世界を見ながら、
あるいは触りながら考えるという全身体的な諸感覚の統合」が
必要となるという意味でも
根源的なものへと向かう「アブダクション」は
創造の際には欠かすことのできない重要なプロセスであるといえる

■向井周太郎『デザイン学 思索のコンステレーション』
 (武蔵野美術大学出版局 2009/9)
■鶴見俊輔『アメリカ哲学(上)』(講談社学術文庫 1976/6)
■『坂部恵集1 生成するカント像』(岩波書店 2006/11)

**(向井周太郎『デザイン学』
   〜「アブダクション————生成の根源へ、制作(ポイエーシス)の地層へ」より

・パースの記号論とアブダクション

*「アブダクション(abduction)という概念は、思考過程ないし推論の方法の一つとして一般的に仮説形成とか仮設的推論と訳されている(・・・)。記号論(semioticセミオティク)を創始したアメリカの哲学者、チャールズ・サンダース・パースによってその重要性が指摘され、そして詳細に検討がなされたものです。推論の方法について、伝統的な論理学における「演繹」や「帰納」という推論の二分法に対して、パースはアブダクションという過程を加え、これを第一に位置づけて三分法としました。アブダクションは発見の論理とも創造の論理とも呼ばれています。」

*「一方では、スイスの言語学者。フェルディナン・ド。ソシュールのもとで生まれたといわれる記号学(sémiology セミオロジー)という概念の言語学を母体とした記号理論の思潮にんも新しい文化学への道を示唆するものとして注目が集まっていました。私は勉強していく過程で、個人的にはそのソシュール系の記号学(sémiology)に対してよりもパースの記号論(semiotic)の方に、より魅力を感じていきました。その理由の一つが、推論の過程を三項関係とし、その根底にアブダクションを据えた記号(広義の言語)の大系と自然哲学を背景とした世界認識の魅力です。」

*「日本で最初に「パースの人と思想」について紹介されたのは、アメリカでプラグマティズム(pragmatism)の哲学を学ばれた鶴見俊輔です。(・・・)鶴見氏はこの本のなかでアブダクションを「構想」と呼んでいます。実は私のこの本の論考全体が私自身のデザイン学の仮説形成というか、あるいは構想というか、アブダクションなのだといえるかとも思います。

・パースによる手書きのポーの詩

*「このアブダクションが興味深いのは、私にとってはパースの関心がまずどこにあったのかということと大いに関係していますが、それはパースの書き写したエドガー・アラン・ポーの「大がらす」という詩にたいへんよく示されていると思います。私は言語学者のローマン・やこぶそんの論文でこの作品を知りました。」

*「パースはまず、その言葉の原初的な身体リズムや声や意味(こころ)との共鳴を呼び戻そうと試みています。しかもポエジーは本来朗誦するもの、歌うものです。そのポエジーとしてのパフォーマンス(performance)、いわゆるポエジーとしての身振りを回生させようとしています。そして、そのすべての身体感覚の共鳴を呼び戻そうとしているのだといえます。言葉は、本来、生命的な力であり、生命の力です。パースがアブダクションを重視したのは、こうした関心と深くむすびついているのだ、と私自身は考えています。

 パースはまたアブダクションのことをレトロダクション(retroduction)といった方がより適切かもしれないともいっています。レトロダクションというのは、根源へと遡行していく、源へと立ち返っていく、そういう意味です。別の言い方をすれば、自然の根源へ、いのちの根源へ、生命の根源へ戻りなさい、ということなのです。

・カントの構想力とアブダクション

*「鶴見俊輔氏の本から学んだことですけれども、パースはアブダクションについてこうもいっているそうです。それはカンシーヴ(conceive)であると。副詞ではカンシーヴァヴリー(conceivably)。これはコンセプション(conception)とつながる言葉で、想像する、構想する。イマジネーション(imagination)の意味です。(・・・)もともと「孕む」とか「受胎する」という意味なのです。なるほど、あるイメージやアイデアを受胎するということなのです。こうしてみると、哲学にはカント研究から入ってパースの、カントの「構想力」との関係がよく分かります。

 カントの「構想力」という概念はEinbildungskraftの訳語ですが、この語の意味は「像を想い描く力」ないし「形象を想い描く力」という意味で、イマジネーション(imagination)の訳語の「想像力」という語に対応します。ただ「構想力」というときには、通常、カント哲学とそれに由来する用法の訳語であると考えられています。

 カントの「構想力」という問題提起は哲学における認識論の転換を先駆けたものだと思います。ここで、カントが知性や理性といった認識能力に対して、美を感受する心情(Gemüt)による認識能力をより根源的なものであると考え、その認識能力を「像」や「形象」あるいは「かたち」を想い描く能力、すなわち「構想力」だとしたことが、たいへん重要であると、私は考えています。パースのアブダクションはこのカントの「像」や「形象」や「かたち」を想像する能力とつながっているのだと思います。パースの記号のカテゴリーの背景にもカントとのつながりが見えます。

 パースの記号論はカテゴリーが多層的・連続的で一見複雑な感があり、また概念には造語も多く、きわめて難解に見えますが、しかしながら、私はパース記号論の本質的な意味はつぎのように捉えることができるのではないかと考えています。私の想像では、その記号論建設の構想というのは、生命的な感覚とつながる根源的な前言語にまで遡行した全的な言葉の世界を再建しようとしたのではないかと思っています。

・「パースの記号カテゴリーと宇宙生成論

*「パースの記号(広義の言語)の捉え方、そして世界の捉え方(カテゴリー)は、いっぱんてきな二項関係としてではなくて、三分法、三項関係として展開されているところに特色があります。たとえば、ソシュールの場合には、記号を「記号表現・シニフィアン」と「記号内容・シニフィエ」という二項関係で捉えています。(・・・)二項関係ないし二項対立ではなく、世界を三項関係で捉えるという世界認識の仕方が私にとって魅力的であるのは、通常の生活経験においても分かりますように、二つの項の間に、それをつなぐプロセスや媒介項が生まれてくるからです。(・・・)パースの場合、この三分法がきわめて多層的で、しかも連続性をもって展開されます。」

*「パースの記号論は、通常の言語以外の言語(イメージ的な言語、身振り言語、視覚的な図的言語など、そのような原初的な「ことば」)の地層から人間のことばの大地として再び取り戻していく、そういうことを行っているのだと思います。パースがこうした試みを「言語論」とはしないで「記号論」という新しい概念で捉えていることも、その構想の表れだともいえます。通常の言語とイメージや身振りなど前言語的なことばを一つに統合的に捉えるために、それら全体を原初的には「兆し」や「兆候」などの意味を含む「記号(サイン)」という概念で捉え直しているのです。

 この思想は広い意味での「生の哲学」の流れに属するもので、パースの哲学は、その意味で従来の哲学理論に見られる観念的な思弁を排するとともに、デカルト以来の物体と精神、物と心、自然と人間といった近代哲学の二元論を解体して、生命や生における現実の具体的な営みや行為との関係のなかで精神活動が果たす役割を見る視点に重点を置いています。このように現実の生に根差した実践的な行為の哲学であるという意味でパースは自らの哲学をプラグマティズム(pragmatism)————後には、プラグマティシズム(pragmaticism)————と名づけるのですが、この言葉もカントの「プラグマーティッシュ(pragmatisch)」という概念に由来するパースの造語です。これは、一般的には現実の経験や感覚に即して、という意味です。私はこのプラグマティシズムはその意味でデザインという行為にもっとも即した哲学の一つなのだと思っています。」

・アブダクションと直観

*「いっぱんてきなパース論では取りあげられることがありませんが、さらにパースがたいへん深い関心を寄せていたのは、表意文字、イデオグラム(ideogram)です。なかでもとくに漢字に関心をもっていました。」

「漢字は表意文字ですから図像的で直感的な把握が可能です。アブダクションは、ひらめき的現象や閃光のように表れる洞察の働きであるともいえ、直感的な把握の問題に関係します、しかしパースが直観を否定したということは、よく知られているところです。これはパースがデカルト主義的な直観を否定して、記号を媒介とした推論を認識の前提としたからですが、しかし、パースはその推論の中核をしめる直観の重要をよく認識していました。したがって私は、ここでは直観的(anschaulich)な把握ということを、そのドイツ語の字義にも含まれているような「生き生きとした目で見たような直感的・全体的な把握」、言いかえれば、ゲシュタルト的な形象による認識、もしくはパターン認識と捉えて、アブダクションと直観との関係をつなげて考えていきたいと思います。アブダクションは直観的な行為であると。」

・「西洋の知」の脱構築

*「創作活動にとって、これまで述べてきましたような意味で行為が直観であり、直観が行為であるような活動が第一の前提であり根源的であると思います。ですから、直接的に対象や世界を見ながら、あるいは触りながら考えるという全身体的な諸感覚の統合による制作行為(ポイエーシス)がもっとも根本的で大切であるといえます。」

*「アブダクションという仮説形成のプロセスと直観の重要性を強調したからといって、ロゴス的、論理的な思考を否定しているわけではありません。パースの記号論自体、パースの鋭い感性と強靱なロゴス的思考とによって構築されています。どちらかというと、概念的な思考になじまない日本人の思考構築力の性向な現代日本における画像文化の氾濫に流されている状況とを思い合わせますと、ここでは、同時に、ロゴス的、論理的な思考の構築力の重要性も強調しておく必要があるかもしれません。」

**(鶴見俊輔『アメリカ哲学(上)』〜「第三章 パースの意味」より)

*「パースによれば、科学的思索は、三種の方法がいっしょに働くことによって成り立つ。三種の方法とは、①構想、②演繹、③帰納である。演繹とは、指導原理(leading principles)の助けによって、前提命題からその論理的含蓄をひきだす方法である。帰納とは、すでに与えられた一命題が、どのくらいの確実性をもって成り立つかをためす方法である。演繹からも帰納からも、この方法を実施する以前になかった新しい命題を獲得することを期待できない。思索の中に、今までなかった新しいものが入ってくるのは、まったく構想によってである。構想によって、新しい仮説が提出され、それがさらに演繹によってもっと実験しやすい形に直され、帰納によってそれの成立する場合の頻度が明らかになる。これは、科学的思索における発想段階を他の段階から切りはなしてとくに重大視する見方である。」

「この中でくりかえされている、“conceive”という言葉は、もともとの意味は、「はらむ」というのであって、ある一つの新しい考えをぱっと一時につかまえるしぐさを示す。想像というよりは、発想という言葉に近い。科学的思索における発想の役割を重大視したパースが、その発想を促進すべき座右の銘としたプラグマティズム格言のなかに、“conceive”をくりかえし使ったことはうなずける。

 しかし、“conceive”とか、“conceivably”を何度も使うことのためには、もっと内面的な必要というべきものがなくてはいけない。」

**(『坂部恵集1 生成するカント像』〜「構想力の射程」より)

・1 構想力の位置

*(カント『純粋理性批判』第一版「純粋悟性概念の超越論的演繹」第三節「悟性と諸対象一般との関係および諸対象をア・プリオリに認識する可能性について」において、「直観の多様なものを一つの形象たらしめる」構想力の把捉のはたらきの根源的なる所以を述べたカ所に付した一つの注)

  「構想力が知覚そのものの構成成分であるとは、これまでおそらくどの心理学者も考え及ばぬところであった。このことのよって来る所以は、一つには。ひとが構想力というこの能力を再生産の作用だけに制限したからであり、いま一つには、感官がわれわれに諸印象を提供するのみならず、それらの諸印象を合成し、諸対象の形象をもたらしさえすると信じられたからであるが、しかし、そのためには、疑いもなく、諸印象の受容力のほかに、さらに何かそれ以上のもの、すなわち、それらの諸印象を総合する一つの機能が必要なのである。」

*「古代ギリシャ以来の西欧の思考の伝統において、人間の認識の成立にあたって想像力ないし構想力(phantasia,imagination)の占めるべき位置は、カント以前には、概して悟性や理性にひきくらべて一段低いものとみなされてきた。」

「カントは、(・・・)構想力による綜合の名のもとに、いわば「諸対象の形象」そのものの原初的たちあらわれにかかわる、人間の認識におけるきわめて基本的かつダイナミックな一つのはたらきの次元にあえて探りを入れていた。そして、まさにこの点にこそ、のちのロマン派の哲学者からハイデッガー、三木清にまで大きな影響を及ぼした構想力のはたらきをめぐるカントの議論の要点が存したのである。」

「カントは、人間の認識のうちにたちあらわれる把捉される〈形象〉(Bild)を、孤立してそれだけであらかじめ存在するものとしてではなく。まさに、諸印象の脈絡における〈親和性〉の〈把捉〉、さらには〈連想〉という構想力の統一のはたらきのダイナミックは場の全体のうちにおいてはじめて象りを得るものとしてとらえる。有名な「コペルニクス的転回」は、カント自身いうように。人間の認識における客観の優位から主観のそれへの転回を意味することは確かであるが、われわれはむしろ、この転回が、すでに出来上がった形象や観念等々を出発点にとる〈原子論的〉な見方から、構想力のダイナミックな総合のはたらきの場のいわば一次性を強調する〈全体論的〉な見方への変改という意味を内包する側面のほうを強調して、このカントの有名な表現を今日あらためてうけとるべきだろう。このような見方をとれば、それは、過度に主観主義的な、また過度にロマン主義的なカント読解を斥けつつ、むしろ、(それを何という名で呼ぶにせよ)人間存在に置かれた場全体の構造に即して読み替えていこうとするハイデッガーや三木の彷徨を継承することにおのずからつながっていくことになると考えられる。」

・2 三重の総合と構想力

*「感性と悟性は、なるほど(感性的と知性的とを問わず)認識のためお多様な素材を与えるではあろうけれども、しかし、それだけで「構想力の超越論的機能」による媒介を欠くならば、一つの脈絡のうちに統一されて対象の形象をもたらしことは絶えてない。形象(Bild)の把捉のためには、構想力(Ein bildungskraft)による統一のはたらきが不可欠である。しかもここで是非とも見過ごしてはならないことは、把捉ー連想(再生産)ー再確認という順序をたどって記述される総合のはたらきは、けっしてこの順序で下から上へと上積みされて遂行されるべきものとしてではなく、むしろ、まったく逆に、いわばこの三つの総合の場を垂直方向に貫きながら、それら三つの(とりわけ再確認の)強い構造をより柔軟な弱い構造のうちに包摂する、より基本的かつより包括的な構想力による、より大きな総合のはたらきをまって、諸カテゴリーをア・プリオリな形式としてもちながら、まさにその開かれた垂直の次元を含めた全体的なはたらきの場において、事物の形象を結ばしめると考えられていることである。」

*「われわれはこうして、伝統的なカント読解の常識に抗してまでも、右にみたような、再確認を頂点とする三つの総合をいわば垂直に貫く構想力のダイナミックは総合のはたらきの全体的な場において、諸カテゴリーなるものの占める。あえていえば相対的な位置にどうしても思いいたらざるをえない。すなわち、カント派、諸カテゴリーを、けっしてそれ自体で完結したスタティックな思考の形式としてではなく、むしろ構想力の総合のそのつどの全体的な場において、いわばそのなかの結節点のありようのア・プリオリないくつかの形式を指定すべきものとして考えていると見なさざるをえない。

 把捉ー再生産ー再確認という三重の総合は、くり返しいえば、把捉を出発点とする幻視論的な既成の単位の積み重ねによって順次構成されるものとしてではなく、むしろ、事実は逆に、より低い段階の総合はより高い段階の全体的な綜合を前提とすべきものとして、さらにいえば。三つの総合の頂点をなす再確認の総合さえも究極の閉じたものとしてではなく、むしろ、ある意味でより包括的な構想力の総合によって垂直方向に貫かれ、ゆるやかな統一の場へと開かれている、とあえてさきのカントのテクストを読むことも可能だろう。

・3 構想力と間主観性の場

*「おなじ『純粋理性批判』第二版のカテゴリーの演繹において、カントが、右にみたような構想力の総合の基本的位置に関する所説を大幅に後退させ、いまや「我思う」(Ich denke)と等置された超越論的統覚を前面に押し出すかたちで、演繹の議論をあらためて整理しなおしたことはよく知られている。」

・5 残された問題

*「およそわれわれをしてなんらかの目に見える像(Bild)ないし〈かたち〉を結ばしめる、ないし、より一般的にいえば、およそなんらかの像ないし〈かたち〉をたちあらわせしめる構想力(Ein bildungskraft)のダイナミックな総合のはたらきの背後に、カントは、目にみえぬ分離的統合としての時間のはたらきを見定めた。

 三分節の相似形の形どりにそって動く相互浸透的なこの分離的統合のはたらきは、つねに隠喩的転換をすくなくとも潜在的にはらみつつ進行する言語ないし言語行為の統一や、あるいはまた、ここで詳論している暇はないが、つねに他者へのいわゆる感情転移・同一化やさらには憑依さえもの傾きをみずからのうちにはらみつつ進められる人格の形成のはたらきにおける統一などの基本型を定めあるいは素描していることにおいて、最も根底的なものというに値する。」

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