石井美保・岩谷彩子・金谷美和・河西瑛里子編 『官能の人類学―感覚論的転回を超えて』
☆mediopos-3014 2023.2.17
ひとは「からだ」をもって生まれてくる
「からだ」のなかに入る
あるいは私のなかに「からだ」が入る
生まれてくるということは
じぶんの「からだ」とともにあることであり
そのなかで五つの感覚
さらにはそれらを含む十二感覚によって
感覚器官と感覚対象をむすびつけ
世界とともに生きること
そして「からだ」をもつということは
「からだ」とむすびついた
「官能」とともにあるということでもある
「官能」というと
「性愛をめぐる経験」をはじめとした
「欲望」のイメージがあるが
「禁欲」さえも「欲望」のひとつであり
それを否定して生きてゆくことはできない
しかも「からだ」とともに生きるということは
他者やものとふれあいながら影響を与え合うことで
世界へ感応し共振するということでもある
本書『官能の人類学―感覚論的転回を超えて』は
人類学者自身がそれまでなじみのなかった土地に赴き
人類学的なフィールドワークによって
「周囲の環境や他者たちと応答し合い、
溶け合いながら自他を変容させてい」き
世界と感応し合い共振し合う豊かな身体経験の世界を
描き出そうとする民族誌である
本書は尾崎緑の「第七官界彷徨」からの引用から始まっている
その主人公「町子が住まう「第七官界」は、
異なる感覚、異なる種、自己と他者、
そして複数の自己が融け合い、
自らの意識が遠のくなかで醸成される官能の世界でもある。」
そのように「本書が取り上げるのは、
まさにこうした第七官界をひらく鍵となる官能の世界」であり
「五感のみならず直感も含めた六感、
ことによるとさらに、時空を超えて働くとされる
七感を通して生み出される感覚世界」であり
「周囲の環境や他者たちと応答し合い、
溶け合いながら自他を変容させていく、
感応=官能する器官としての身体」だとしている
とはいえ(本書の趣旨から外れるかもしれないが)
こうした「官能」にとらわれすぎ
支配されてしまっては「からだ」に閉じ込められてしまう
重要なのは「官能」とともにありながら
その「からだ」の向こう
いってみればそうした感覚を超えたところに
みずからを動的平衡として位置づけることだ
つまり「中庸」「中道」である
その意味でもむしろ「禁欲」は
抑圧によって影がつくりだされやすく
しかも生きることによってこそ
創造的であり得る感応=官能が否定されることになる
「からだ」とともにあることでしか
「からだ」を超えてゆくことはできない
「思考」や「感情」とともにあることでしか
「思考」や「感情」を超えてゆくことはできないように
■石井美保・岩谷彩子・金谷美和・河西瑛里子 編
『官能の人類学―感覚論的転回を超えて』
(ナカニシヤ出版 2022/3)
(「序章/第一節 官能=感応の人類学へ」より)
「 第七感といふのは、二つ以上の感覚がかさなつてよびおこすこの哀感ではないか。そして私は哀愁をこめた詩をかいたのである。(尾崎翠「第七官界彷徨」)
冒頭の文章は、一九三一年に刊行された『第七官界彷徨』の一場面である。主人公である小野町子は、従兄が鳴らす調子はずれのピアノの音を聞き、「恋をしている」コケに兄が施す肥やしの匂いを嗅ぎながら、第六官(感)ならぬ第7官にひびく哀愁のこもった詩を書こうとしている。第七官界とは、別の兄が研究する分裂心理学のように、心のなかで二つの思いがぶつかり合うような状態でもあるとう。従兄の淡い思いを胸にしつつ町子が住まう「第七官界」は、異なる感覚、異なる種、自己と他者、そして複数の自己が融け合い、自らの意識が遠のくなかで醸成される官能の世界でもある。
本書が取り上げるのは、まさにこうした第七官界をひらく鍵となる官能の世界である。本書でいう官能とは、一般に受けとられているような、性愛をめぐる経験だけに留まるものではない。それは「第七官界彷徨」で描写されているような、五感のみならず直感も含めた六感、ことによるとさらに、時空を超えて働くとされる七感を通して生み出される感覚世界である。その基盤となるのは私たちの身体であるが、それは一つの個体で完結するものではない。周囲の環境や他者たちと応答し合い、溶け合いながら自他を変容させていく、感応=官能する器官としての身体なのである。
人類学的なフィールドワークにおいて、調査者はそれまでなじみのなかった土地に赴き、そこに暮らす人びとと長期にわたって衣食住をともにする。その際に、人類学者自身の官能=感応は、環境の変化を受けとめ、人びとの生活世界を感受するうえで決定的な役割を果たす。たとえば、日々口にする食事に使われている香辛料の味、儀礼の場で供犠される動物の血の匂い、耳を聾する太鼓の音、身につける衣服の肌触りやきぬずれの音——人類学者にとって、フィールドワークとはそうした多彩な官能の世界に入り込み、そのあらゆる要素に感応しながら、自らの感覚の閾値を高めていく「変身」の過程なのである。その過程で、調査地の人びとの生活の論理や情動についての気づきが生まれる。そして人類学者のみならず、調査地の人びともまた、周囲の他者や物質との交感を通して日々変身する過程を生きており、民族誌はそうした過程をすくい取る営みであった。それにもかかわらず、こうした感覚を通した世界の把握や身体変容の過程は、移ろいやすく頼りにならないものとして民族誌から切り捨てられてきたのだ。」
(「あとがき」より)
「『官能の人類学』。
このタイトルは一見すると、挑発的にも扇情的にもみえるかもしれない。だが、ここまで本書の内容を読んでいただいたならば、「官能」という言葉には、思いがけない深みと広がりがあることに気づかれたのではないだろうか。官能とは、身体的存在である私たちが世界を感じとり、世界と交わるための能力である。それは、世界を受けとるという受動性と、みずからを世界へ開放するという能動性の両方を兼ね備え、個人を超えた共同性にひらかれている。そうした官能的な諸身体のあり方を、あるいはエロスと呼ぶこともできるかもしれない。」