難しい言葉で書かれた文章はえらいのか?#155
読書やブログを読んでインプットしたり
noteやツイートを使ってアウトプットする機会が増えてきました。
難しい本〈専門用語が多くて読み進めるのが厳しい本〉を読む機会も増えたのですが、
そもそも〈なぜあたかも暗号のような文章で、終始難しい言葉で執筆されているか〉と気になって、今回意見を膨らませる為に、このnoteを書いています。
よかったら、お付き合いくださいませ✨
読みやすい本と読みにくい本
沢山の本を、かき集めるように買って、Google検索をする様に読書をしている、今日この頃なのですが、
どうしても、サクサク読める読みやすい本と、少し難解で見開き2ページ読むだけで3.4分かかるような読みにくい本があります。
当然、「まだまだ知識不足で、自分には読むのはまだ早かったな」と思い保留にすることが多いのですが、
そもそも、読まれる為に書いた本をわざわざ難しくする意図はなんなのでしょうか?
こんなことを言うと自分の読解力や知識量を棚にあげているようで恐縮ですが、、、
売上をあげたいと考えて難解に記しているなら、活字を積極的に読む人口があまり多いとは言えない日本では不利でしょう。
「ついてこられる者だけついて来い」といったストイックな読書化やターゲットを絞った戦略本なのであれば、生産性など全く関係なく書いてあるのでしょうか?
しかし、例えばビジネス書でも、ベストセラー本のほとんどは、筆者のような読書歴半年の素人でも、あっさり一冊読めるように、わかりやすくわかりやすく工夫されて書いてあります。
なので、今回の疑問点としては、難解書にすることによって誰が得するのか??
と言った点にあります。
難しい言葉で書かれた本の歴史
『本を読む本』という歴史ある本を最近読みまして、難解な文体で書かれた本の背景について触れていました。
どうやら、歴史を遡ると明治時代の欧米の新しい文化思想が入ってきたことによる〈翻訳〉が背景にあるそうです。
二言語間で翻訳がなされると、否応なく難解な文章となってしまい、当時はたとえ難しい文章で、理解に苦しむものだとしても、貴重な本として扱われた。
その文化が、そのまま引き継がれ
〈優れたものほど難解であるべきだ〉
と言った、考え方が広まったらしいのです。
つまり、難しい文章のほうが、わかりやすい文章よりも高く評価され、いまでもその名残が根強く残っているということです。
筆者の感想
なんてはた迷惑な文化だ!(笑)
たしかに、難しい本が読める人=すごい人のようなイメージは想像しやすい。
しかし、文章で溢れる今の情報社会の最中において、伝わらない文章は読まれないだけでなく、どれだけ良いことが書いてあっても、広く普及される為には、結局第三者のわかりやすい翻訳のもと、宣伝される必要がある。
それなら、最初から読まれやすい文章として、初手で世の中に出回ったほうが良いことだと筆者は考える。
自称日本一ビジネス本を書くのがうまいと豪語する、キングコング西野さんのブログの文章は拍子抜けするほどに、簡単な文章とわかりやすい例え話で構成されている。
ビジネス用語や横文字やカタカナはせいぜい〈クラウドファンディング〉くらいしか出てこない。
しかし、その文章は幅広い世代に読まれることを想定した、思いやりある文章というだけでなく、読書の心を掴む表現が多用されている。
筆者が毎日垂れ流している、1000〜4000文字の文章とそう変わらないと、思っていた頃が最初はあった。
しかし、その配慮はこれまで何万文字と書いてきた努力や最も合理的判断の末に導き出された結論で、とても敵うものではないと、改めて畏れたものだ。
筆者はどうか?
振り返ってみると、文体については最近やっと考える余裕が生まれた。
ですます体がよいのか、である体がよいのか、それは書く内容による。
ほぼ自己満足にnoteを書くことが多いが、もし「沢山の方に読まれたい!」と思って書くとしたら、
✔︎どのような文章で書くべきか?
✔︎文量はどれくらいが最適か?
✔︎他の方が使っている伝える工夫を
どれだけ試しているか?
など、科学的に研究しながらやるべきだろう。
効果測定や分析を疎かにして、感覚や直感だけに頼っているうちは、大した成長は見込めない。
しかし、もしこの先ライティングを仕事にするのであれば、最低限「読まれるライティング技術の研究」を怠ってはいけない。
執筆が上手な人の文章を徹底的に研究し、自分の血肉とする努力を毎日すべきだと、感じる今日この頃でした。
最後までお読み頂きありがとうございました。
(1951文字/執筆時間68分)