北畠顕家命
戦国時代局地戦最強の剣聖は間違いなく伊勢国大大名であった北畠具教であろうが……
そもそも、この北畠具教の強さは誰譲りのものだろうか?
時代は北畠具教が生まれる195年も前に遡 る……1333年7月4日、元弘の乱で武士達が
打ち立てた鎌倉幕府を打倒、北条得宗家討伐
した後醍醐天皇率いる建武の軍勢の中に歴代北畠家の中で唯一『神号』を冠した大名がいた。
神号 北畠顕家命
北畠家4代目当主 北畠親房の嫡男として生まれた4代目当主 北畠親房は後醍醐天皇の側近
後の三房の1人であった。
後の三房とは勿論、前の三房もいて鎌倉幕府に抵抗した白河天皇についていた重臣である。
特に後の三房についてはそれぞれが高度な学問的知識と政治思想の持ち主であり常に後醍醐天皇の政治に賛同していたわけではない。
次第に後醍醐天皇も北畠親房らの諫言に耳を傾け聞くその姿勢に心打たれ次第に後醍醐天皇に忠誠を誓っていく北畠親房は戦国時代に見られる恩賞としての官位、地方分権構想を提案して後醍醐天皇の政略を支えている。
そんな高度な政治がされる中で1人、満12歳という若さで参議になり公卿まで登り詰め、後醍醐天皇が鎌倉幕府執権 北条得宗家の討伐の為に挙兵した建武の新政では鎮守府大将軍となり
後の室町幕府初代将軍 足利尊氏を新田義貞、楠木正成と共に討伐し、九州まで追い詰め菊池武敏、長国連らと戦ったその者こそが神号 北畠顕家命である。
武力も最強!鎮守府大将軍
1333年に建武の元勲の1人、新田義貞が鎌倉幕府を討幕すると北畠顕家は従三位陸奥守となり陸奥国 多賀城に入り東北地方の統治を始めた。 翌年8月、北畠顕家は東北における北条残党軍の殲滅に成功し津軽平定の恩賞に従二位に任ぜられた。
1335年には鎮守府大将軍に任ぜられた。
北畠顕家に対抗する為に足利尊氏は後醍醐天皇の息子 成良親王を将軍とし弟の足利直義を執権に据えた鎌倉将軍府を設立、奥州管領に斯波氏を当てて北畠顕家の牽制を計った。
同年、11月 後醍醐天皇は足利尊氏の追討を宣言し新田義貞を総大将とする軍勢が鎌倉将軍府に進軍するが尊氏に討ち破られた。
尊氏は逆に後醍醐天皇を討伐する為に京に進軍し目前まで迫った。
これに対抗すべく鎮守府大将軍 北畠顕家は奥州の兵5万を引き連れ足利尊氏討伐の為に京を目指す。
翌年1月には北畠顕家は鎌倉将軍府を殲滅した。
北畠顕家の進軍速度は1日に40km弱を移動して半月で600kmを移動している。
これは後に戦国時代に羽柴秀吉が強行した中国大返しを遥かに超える日本屈指の強行軍である。
更に琵琶湖を一日で渡り、楠木正成、新田義貞と合流し京に入る目前で足利尊氏を叩き敗走させた。
北畠具教は北畠顕家の子孫?
この北畠顕家の強さこそが戦国時代局地戦最強の北畠具教に伝わった…子孫なのだから…と思う方も少なくないと思うが……
実はそうでは無い。
ココまでの史上最強の行軍と戦果を成しているのにも関わらず4代目当主 北畠親房の嫡男にも関わらず北畠顕家は5代目当主では無い。
それどころか北畠顕家の子、北畠顕成は北畠具教には繋がらないのである。
北畠顕家の本拠地は紛れもなく伊勢国だが鎮守府大将軍としての根拠地は陸奥国奥州である。
北畠顕家の弟、北畠顕信は5代当主として北畠親房の三男、北畠顕能を伊勢国司として置き、
鎮守府将軍として活躍するが室町幕府初代将軍となった足利尊氏により伊勢に敗走した。
北畠顕家の子、北畠顕成は建武の元勲として南朝と呼ばれた後醍醐天皇側に重宝され、後に陸奥で浪岡北畠家の家祖となる。
北畠顕家の最期は21歳で度重なる戦続きによる疲労困憊の為、足利尊氏に討ち取られるのである。
奇しくもそれは何処となく後の戦国時代局地戦最強の剣聖、北畠具教に面影が似ている…
北畠顕家と戦国時代の北畠具教は確かに直接的な繋がりは無いしかしながら、高度な政治的知識を持ち後醍醐天皇の側近であった、北畠親房
の血を引いており、その血は北畠顕家と同等と言っていいほどのものである。
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担当 中村宙史