アフター・ヤン(監督:コゴナダ/2021年)
AIロボット、アンドロイド、サイボーグ……どのような表現でも良いけれども、画面に立つ、あるいは、横たわる俳優をそう名指してしまえば、もう体から光を発したり、怪力を示す必要はない。「未来」という言葉が必ずしも喜ばしくも輝かしくも感じられなくなった今日、SF映画がSFたる意味は「現在とは別の世界線を示す」ことであると言える。
ほんの少し違和感を与えるような素振りを加えれば、私たちはすんなりとSF的設定を受け入れる。ロボットのヤンは、ほんの少しだけ肌や表情が滑らかすぎる演出がほどこされているが、非アジア圏の人からしたらアジア人は皆だいたいそのように見えるのかもしれないと思う程度だ。むしろ、その滑らかさが会話の場面の受け答えに現れるときそこに感じるのは、テクノロジーがもたらす人工的な知性というより、無垢な、天使のような知性の存在である。ヤンのまわりの人々は何かに悩み、苛立ち、あるいは、未熟であるが、彼だけは常に深い思慮に満ちた表情を返す。中国4千年の歴史をトレースしたAIだからなのか、それとも、それこそが人間を越えた知性の集積であることを示しているのか。もし、中国系アメリカ人のSF作家、ケン・リュウの短篇に慣れ親しんでいる人ならば、この映画のなかで明らかに中国/東洋文化に焦点が当てられていても、それが単なるオリエンタリズムではなく、SF的想像力の現在としてごく自然に受け入れられることだろう。
さて、この映画が投げかけているのは、ヤンが動かなくなった_故障し、役に立たなくなった_とき、メモリバンクに残された《記録=映像》にはどのような意味があるのかを周囲の人間が問い、それが翻って彼ら/彼女らが自問する「私(たち)とは何か」であるように思われた。断片的に記録された映像は、ごく短く、編集もされていない。今日ライフログとなったSNSに投稿される無数の短い動画のようでもあるし、リュミエールやエジソンの頃の初期映画のようにも見える、実に素朴なものである。映画は早々にヤンが機能を停止してしまい、言葉も微笑みも何も返してくれなくなった現実の上に進んでいくので、主人公であるジェイクは、それらの短い映像のアーカイブを通じてヤンとの禅問答のように対話を進めていく。別の言い方をすれば、西洋文明が「あるべき個人」を突き詰めた先で投げ捨てつつある、選択できない家族や隣人というもの、そして「自律した個人」であることの強い孤独を照射する対象が、AIロボットであるヤンなのではないだろうか(加えて言うならば、劇中ではあっさりとその存在を前提とされているクローン人間もそうであろう)。
そう、劇中の人々はさまざまな形で対話している。食卓を囲んで、オンラインで、あるいは、自動運転の車内のスピーカーごしで。いつでもどこでも自由にコミュニケーションがとれることは少しも未来的ではなく、まったくの現在である。小津安二郎監督のそれを模したであろう切り返しがオンラインでは少しも不自然に思われない時代に私たちは生きているのだ。一方で、故障したヤンも、ヤンのメモリバンクに残された映像も、現在のジェイクの問いに応答することはない。しかし、それだからこそ、ジェイクは何度でも対話することが可能になる。むしろ、リアルタイムにコミュニケーションがとれないこと、答えが返ってこないことこそが未来なのだとでも言わんばかりに。
『アフター・ヤン』(監督・脚本・編集:コゴナダ/2021年/96分)
https://www.after-yang.jp/