プチブルのひそかなたのしみ-凝視できない隣人を凝視するためのワイズマン-
この短い文章は、2002年5月30日付けのテキストファイルというだけで、何のために書いたのか思い出せない(思い出したら追記する)。しかし、当時せんだいメディアテークで企画した『映画への不実なる誘い』の打ち合わせか何かでお茶をご一緒しているとき、その講師である蓮實重彦氏からふと「あれ面白かったですよ」と言われたことだけは憶えているので、どこかに載ったものであることは間違いない。そして、たとえそれが社会人3年目になったばかり、映画をろくに知りもしないままの若造へのリップサービスだったのだとしても、ある意味その後の仕事を方向付ける大事な瞬間をもたらしたのだ。やはり蓮實先生と言うよりほかない。
はじめにお断りするが、フレデリック・ワイズマン作品を知る人、特に映画愛好家や研究者による彼の作品に対する一般的な評価は、社会的な問題を鋭く描いたドキュメンタリー作家というものである。もちろん、私もその評価に異論を差し挟むつもりはない。彼が描いてきたアメリカの都市の一部分は、つねにその場所とそこに居合わせる人の詳細なレポートでありながら、アメリカ社会、あるいは、現代社会の問題を見る人に深く考えさせる。その意味では、彼の作品は社会問題をえぐり出す表現物として存在している。
しかし、この短い文章で書こうとしているのは、そのような批評に追随するものではない。今回のためにサンプルビデオを自宅の小さなテレビで見ているときに気がついた些細なことについてである。あるいは、私だけではなく誰もがひそかに感じているだろうと思いたいワイズマン作品の特徴についてである。
さて、病院の待合室で順番を待っているとき、受付で口論をしている人を目にしたことがあるだろう。大きな声でどなっているのが気になって、雑誌から目を離してちらりと声のする方へ頭を向ける。人間の耳は聞き取ろうとする意志にしたがって音をひろうようにできているので、そのときにはじめていかなる問題についてその人が感情を高ぶらせているかがわかる。待ち時間が長いことを訴えているのだろうか、それとも、自分の痛みとは無関係に機械的な診察に腹を立てているのだろうか、口論の途中からではよく意味がとらえられない。しかし、わざわざことの成り行きを確かめるために近づいて行くわけにもいかない。そんなとき私たちは、いや、そのような品のないことは考えたりしないという方もいるだろうから書き換えておくが、人によっては、本当はその顛末をじっと見てみたいと思うことがあるだろう。口論に参加するつもりはないが、ある種の好奇心によって、そこで起こっている問題を観察してみたいという欲望にさらされるのである。
その欲望を映画の中で満たす、つまり、おそらく近づいていったら見えるであろう口論の光景が、ワイズマンの作品のなかにはあるのだ。このような指摘が非常に不謹慎であることは重々承知している。しかし、映画というものを人類が経験して以来、「映画的視点」というものを空想のなかに獲得した私たちは、頭の中で描いている光景を映画の中に再発見する快楽も同時に見つけたのだから、仮にそれが社会派のドキュメンタリーであろうと、現実には行い得ない頭の中の想像を映画のなかに見いだしたときの密やかな喜びを否定することはできないだろう。
たとえば、『福祉』(1975年)の冒頭に現れるネイティブアメリカンの男性の訴え。『高校』(1968年)のなかで教師に一方的に叱られる生徒のくぐもった表情。あるいは、『病院』(1969年)の薬物中毒で朦朧とした言葉を繰り返す若者のうつろな眼差し。もし、あの現場に居合わせたら、少なくとも多くの日本人は顔を背けながらさりげなく目を向け続けることだろう。その生理的な欲望にも近い他者への関心の是非はここでは問わない。ただ、そのような思いが人の心の片隅にあり得るということである。その意味で、ワイズマンの作品は善良な現代人の密やかな欲望を刺激しているように思われる。