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彼は草を編んでいる。かれこれ5年の間ひたすら編み続けている。 彼が言うには、7年間一つの所業に励み続ければ、8年目からは薔薇色の人生が待っているのだそうだ。彼は食事も寝る間も惜しんでイラクサを編んでいる。「白鳥の王子」という童話があったっけ、と思ったけれど口には出さなかった。彼は信じている。この7年、どれだけ草編みに励んだかを『彼(か)の人』が見ていてくれていると。だからあと2年の間はより一層精を出すのだそうだ。編み方にムラが出ないように、すべての工程を丁寧に行うよう気を付
桜の舞い散る中、私の恋は死んだ。 お花見ってもっと楽しいものじゃなかったっけ。暖かい陽だまりの中でお弁当とか持ち寄って。唐揚げの上に桜の花びらが乗って笑ったりするやつ。 そして夏が来て海に行って花火見るんじゃなかったっけ。 なんで一人で桜の花びら散るのを見て泣いてるんだろ。 ねえ、海は?白浜いきたいとか言ってたじゃん。 秋は紅葉とか見に行くんじゃないの?冬はバンプの曲みたいにポッケに手ぇ入れさせてくれるんじゃなかったの? 寂しくて悲しい。心が痛い。物理的に胃も痛い。ご飯が
この文章を読んでいるあなたは、本を読むのが得意ですか? 私はというと、どちらとも言えません。昨年、本を一冊出版したくらいなので、今でこそ本は好きですし読むのも早くなりましたが、子どもの頃はむしろ苦手でした。 なぜ苦手だったのかと考えると、端的に言えば「めんどくさかったから」です。大量の文字情報を目の前にすると、それだけでウンザリして眠くなってしまい、面倒くさがり&せっかちだった私は、あらすじと結果だけ分かっていればいいじゃないか、と思っていました。 そもそも、本とは何な
私の腕の中では、ショールにくるまれて今年産まれた娘の真里が眠っている。夫が運転するレンタカーの助手席の窓からは、よく晴れた空と青く凪いだ瀬戸内海が見えた。今日はこれから、結婚後初めて私の生まれた家に里帰りするのだ。 思い出すのは、小さいころ、この海を港の堤防に座ってずっとスケッチしていたことだ。祖父に買ってもらったキャンパスノートを大切に使っていた。灯台にかもめ。遠くを行く船。2Bの鉛筆で、なぞり描きしていたことを、つい昨日のように思いだせる。 私はいま東京で、フリーでイ
ああ、負けた。 最後の試合だった。 ぱちぱちぱち。 仲間たちからのまばらな拍手が聞こえる。 「おつかれさま。」 「ナイスプレーだったよ。」 優しい顔をしてくれているであろう、コートの外の仲間たちを見ることができない。ラケットをぎゅっと握りしめて、喜びで目を輝かせる相手とネット越しで向かい合い、一礼する。 「ごめん。」 真横から小さく聞こえたその声をたどって顔を上げると、すでにコートの白線ラインへ向かって歩き出した背中が目に映る。 筆文字みたいな字体で書かれた学
親父とお袋を連れて、僕は遠く離れたヨーロッパの島国にやって来た。 関空からドバイで乗り継ぎ、マルタ国際空港に着くまでに要した時間は約20時間。しかし、マルタ共和国は日本よりも8時間遅いので、移動時間と体感時間がつり合わない。何だか不思議な気分だ。 空港には、誰でも自由に弾けるピアノが設置されてあった。 両親はもちろん、僕ももう若くない。長時間のフライトもあったし、まずは休みたかったのでバスに乗って、セントジュリアというマルタで一番栄えている街に向かった。そこに今日泊まるホ