486.私はね、一文無しになって、死ぬんだよ~【65歳からの出発~】
coucouさんのお仕事論⑨
1.定年なんて、ないんだよ~
まだまだ、働きたい。
まだまだ、仕事をしたい。
60歳定年なんて誰が決めたの?
定年制については、荻原勝氏の『定年制の歴史』(日本労働協会)が最も包括的な解説書なんだけれど。それによると、最初は会社をやめてもらいたくないために、働き手を引き留める制度だったようだ。
一身雇用、終身雇用というように、会社に入れば働く者にとっては生涯を保証され、雇用する側も安定した人材を確保することができた時代でのこと。
また、せっかく技術を教えたにも拘わらず、他の会社で働かれても困る。
そんなことで、60歳定年制ができたみたい。
確かに、coucouさんが子どもの頃の、50歳、60歳などは老人だった。そして、70歳を過ぎれば動けなくなっていたような気がする。
だから、20歳から40年働いてもらえれば、それだけでも雇用が安定すると考えたんだね。戦後の人手不足の時代の経営者側からすれば格好の制度だった。
でも、現代では、終身雇用などという言葉は崩壊してしまい、どの会社で働いたとしても60歳定年まで働けるかどうかの保証もなくなった。
さらに、当時の人より長寿命の時代となり、住宅の購入資金なども20年ローン、30年ローン、40年ローンなど当たり前です。人生100年が現実となりつつあるんだね。(でもね、coucouさんの先輩はローンが70歳まで続くんだと嘆いていた)
60歳代はもちろんのこと、70歳代、80歳代で元気に働く人々も増えてきた。こうなると、60歳定年、延長して65歳定年などだって、まだまだと感じるよね。
2.人生を経営する
1956年、もうすぐ66歳になろうとしていたとき、彼は全財産を失なった。しかし、まったく落ち込んでいなかった…。
彼の頭のなかには希望だけが残っていた。
過ぎてしまったことを振り返る時間も考える余裕もなかったのだ…。
彼の名は、カーネル・サンダースはケンタッキーフライドチキンの創業者だ。彼は、そっとつぶやいた…。
「さて、どう生きようか・・・・・」
この時のカーネルの頭の中にあったのは、ケンタッキーフライドチキンの事業化だった。もちろんお金は一銭もないし、店を持つことなんてまったく不可能。残されているのは、過去の膨大な失敗という経験と幼き頃の母との想い出だけだった。
10歳のとき、母を助けるために彼は農場に働きに出たのだけれど、誰も相手にしてくれない。当たり前だよね、彼はあまりにも幼すぎたんだもの。
彼の生活事情を知ってくれたある農場で働かせてもらうのだけど、やっぱり無理だった。
当たり前のこと…。
彼は、一人で働いて幼い兄弟を育てる母の役に立ちたい、何よりも母を楽にさせたい、喜んでもらいたいという一心だけだったんだ。
でも、何にも役に立たないまま、仕事をやめさせられた彼は、夜道を一人で歩き、たどり着いた家の前で泣いていた。
お母さん、ごめんなさい。
何も役に立たない僕を許してほしい…
彼は泣き続けていた…。
そんなとき、外の気配を感じた優しい母は、泣いている理由も聞かず、ただ彼をあたたかく向か入れ、スープとチキンを食べさせてくれた。
(お母さんはわかっていたのだと思う)
3.人生ってね、最後の最後までわからないものなんだよ~
もう、生きて行けない。
もう、死ぬしかないのか…。
すべての事業に失敗し、唯一の子どもまで失い、66歳の彼は、あのときの母を想い出していた。何よりもお母さんが大好きだった。
彼は涙に包まれながら、あの母の優しい笑顔と美味しかったチキンの味を想い出した。そして、その想い出とともに再び立ち上がる決心をする。
それが、ケンタッキーフライドチキンのはじまりなんだ。
彼は、この時に、母の想い出のフライドチキンを多くの人に食べてほしいと願ったた。
「自分のフライドチキンを他のレストランメニューに加えてもらうようにするには、まず食べてもらい、おいしさを知ってもらうことが必要だった」という。
たしかに、どんなに良いものでも知ってもらはなければ話にならない。
カーネルは常々、実感していた。
そのためには、まず一軒一軒のレストランを訪ね歩く以外方法はないと考えた。
「さて、また始めるか」
カーネルは中古のフォード車に自分の発明品である圧力釜と調合されたスパイスを入れたビンをのせ、事業を失敗した地、コービンの町を離れました。
たったひとりぼっちで旅に出たカーネルは、まず見込みのありそうなレストランを物色すると店中に入り、オーナーと交渉をはじめた。
でも、突然訪れた見知らぬ白髪老人の話を真剣に聞く人などいないよね。
まさに、これが現実。
カーネルは売り込みに夢中のため、レストランの営業中、特に忙しい時間帯に顔を出していたことにも気づかなかった。
そこでカーネルは作戦を変えて、忙しいランチタイムを避け、終わったころを見計らってもう一度訪ねるようした。
今度はレストランのウエイトレスと話すことはできたけれど、なかなかオーナーには会ってはもらえない。
当たり前だよね…。
なかにはお客と勘違いしてオーナーが出てくることもあったけれど、売り込みだとわかると態度が変わり追い返されてしまう。
それでもようやく店のシェフやオーナーと話す機会が持てるようになり、フライドチキンを試食して、その味を評価してくれるレストランも現れたが、どのレストランもカーネルの提唱するフランチャイズのアイデアには、なかなか首を縦に振ってはくれない。
(当時はフランチャイズなんて言葉もノウハウもない時代)
この間、カーネルは費用を節約するために車中泊をくり返し、食べるものは見本でつくったフライドチキンだけの生活を送っていたという。
4. 天に誓うカーネル・サンダース
この時のことを、カーネルは自伝の中で、
「神よ、どうか私のフランチャイズのアイデアを成功へと導いてください。そうしたら、あなたの取り分を必ず渡しますと誓った」と回想しています。
生まれて始めて真剣に祈ったというぐらい、当時のカーネルは追いつめられていたことがわかる。
でも、カーネルにはまったくあきらめる気はない。
それはね、自信という希望と、この世を去った優しかった母が傍にいることを確信していたからなんだ。だって、この味は母の味だからね。
それに自分に残されている選択の余地が他にまったくないこともわかっていた。
このフランチャイズ契約の第一号の契約者であるソルトレイクシティのピート・ハーマンはのちに、
「カーネルは、ケンタッキー・フライド・チキンのおいしさとビジネスを、多くの人と分かち合うことが自分に課せられた使命と感じているようだった」
と語っていた。
苦戦、苦戦の連続の中で、カーネルの大きな支えとなったのが、このピート・ハーマンだった。。
ピートは契約後、自分のレストランでフライドチキンを本格的に売り出すために精力的に動き出し、ソルトレイクシティの街に120を越えるケンタッキーの看板を出し、さらに地元のラジオでコマーシャルを流した。
5.母のように、みんなを喜ばせたいんだ~
その時のおもしろいエピソードがある。
ピートはラジオ局に頼み、当時人気のあった一時間のトークショーに「5分間だけ」という条件で、番組の中でカーネルにインタビューをしてもらうようにした。
しかし、担当の女性アナウンサーがカーネルの話を聞けば聞くほど興味を持ってしまい、気がついたら一時間のトーク番組がすべてフライドチキンの話で終わってしまったという。
カーネルにとっては生まれて始めてマイクの前で話す機会だったけど、カーネルの今までの人生、そして情熱や夢を考えれば、アナウンサーが夢中になってしまうのもよくわかる気がする。
こうしてピートはコロラド、カリフォルニアなどの各州に200店舗以上を運営することになり、ケンタッキー・フライドチキン最大のフランチャイジーとなっていく。
ピートと知り合ったこと、そして彼が最初の理解者となってくれたことがカーネルにとって「幸運なこと」であったといえるけれど、この幸運のきっかけは、カーネルの「他の人を喜ばせたい」という思い、そして母に対する思い、希望や情熱が根底にあったからだった。
彼の今までの人生のすべてが味方をしてくれた瞬間だった。それがきっかけとなり、出会いが生まれ「幸運」に結びついた。
もし、彼にこの過去の体験と経験がなかったら、このような出会いはなかったといえる気がする。
彼は、その後も「もっともっと喜んでもらいたい」という信念と情熱をもとに、レストランへのアプローチを続けた。
さらにカーネルはアプローチに工夫を凝らす。
それは、見込みのありそうなレストランを見つけるとオーナーに掛け合い、昼の忙しい時間帯を過ぎたあとか閉店後に、従業員の食事のためのフライドチキンを作らせてもらえるよう頼んだ。
そして、店のオーナーと従業員が気に入ってくれたら、カーネルはさらに2〜3日滞在し、今度はお客に食べてもらうことをオーナーに提案した。
このアイデアは多くのレストランで受け入れられたという。
(従業員、オーナー、お客様がモニターとなる)
また彼は、料理を作り終るとダイニングルームに行き、お客と話をすることをとても楽しみにしていた。
フライド・チキンを注文したお客のところへ行き、「お味はどうですか」と聞いて回るんだ。この頃からカーネルは、白い上下のスーツに蝶ネクタイというおなじみのスタイルでお客のところに行くようになった。
彼は当時をふり返り、
「お金がなかったので、広告などを出すかわりに、自分が少しでも目立つようにし、お客を楽しませることにした。喜んでもらえるのなら、どんな格好もした」
と語っている。
彼のユニークな戦略は、自らが広告塔になったことだった。
(カーネルの白いスーツは、十代の頃に働いていたサザン鉄道のユニホームから得たアイデアで、カーネルは清潔さを表す白いユニホームがとても気にいっていたという、日本でもイベントや何かのお披露目の時は、駅長さんは白いスーツと帽子をかぶっている)
そこで彼がどのようなフランチャイズ契約を結んだんだろう…。
(これが世界で初めてのフランチャイズ契約となり、現代ではコンビニエンスストアのように多店舗を考えている企業のほとんどがこの契約を結ぶようになった。元祖)
6.世界で初めてのフランチャイズシステム
まず、圧力釜、タイマーなどのセットを35ドルでフランチャイジーとなるレストランに買ってもらう。
圧力釜は、メーカーや種類によって性能はまちまち、しかし、レストランによってフライドチキンの味が変わらないように統一。
そして、フライドチキンの調理方法を教えるのには、カーネルが直接相手のレストランに出向き、3日間かけてトレーニング。
味となるスパイスは、中味を秘密にするために自分の家で調合し、できあがったものだけを渡すようにした。
(これは今でも企業秘密)
そして、チキン一ピース売れるごとに、数セントをロイヤルティとして受け取る契約を結んだ。
どのくらい売れたかどうかは、スパイスの減り具合で検討をつけ、ロイヤルティにはスパイス代も含まれているので相手に納得しやすいようにした。
この「独自のノウハウを提供してロイヤルティを得る」というカーネルの新しいアイデアが世界で初めてのフランチャイズビジネスとなった。
彼のフランチャイズが、このように早く世の中に広がっていった大きな理由は、カーネルのようにアイデアさえあれば、ビジネスを広げていくのに多額の資金を必要としなかったことだといえる。
個人ではもちろんのことだけど、企業でさえチェーン店としてケンタッキー・フライドチキンのように店舗を増やしていくには相当の資金が必要になる。
現在でもそれほどの資金力のある企業は大手以外ないかもしれないね。
また、資金だけの問題でなく、たとえ資金力があったとしても、店舗物件を探したり調査したり、ビジネスを始める準備やその後の管理をするにはそれなりの時間と労働力が必要になる。
さらに、店側だけで新商品の開発にコストをかけられないのも現実のひとつ。
一人一人のフランチャイジーがビジネスを始める準備をし、店の経営の責任を持つフランチャイズだからこそ、急速に店舗を増やすことができたのです。(同じ店名の下でそれぞれは独立している自営業者さんたち)
つまり、直営店を自らの投資で増やすことよりも、フランチャイズとして独立採算形式で、それぞれの投資による他店舗展開の方がリスクも少ないからなんだ。
もちろん、フランチャイジー側にもメリットがある、それは個人では経済的に不可能なテレビコマーシャルなどの宣伝ができたり、知名度に便乗できるためビジネスのネームバリューや人々に親近感、安心感を与えることができるからです。(これがフランチャイズシステム、個人の集合体)
フランチャイズ・ビジネスは、お客、フランチャイザー、フランチャイジー、そこで働く人々を含め、誰にとってもメリットがあるビジネスなので、短期間のうちに受け入れられたといえるね。
このようなフランチャイズシステムを世に送り出した彼の功績はとても大きなもの。
のちに彼は、その功績を称えられ「ファースト・フード・レストランの父」といわれるようになった。
こうして彼は、1年目にして7件のレストランオーナーとフランチャイズ契約を結び、ケンタッキー・フライドチキンの本拠地となるケンタッキー州最大の都市、ルイビルに移ることになった。
7.彼はね、特別に選ばれた者じゃあない、ただ、お母さんを愛していただけなんだ!
65歳ですべてを失い、ゼロから始めたビジネスがわずか9年で200万ドルをもたらすビジネスになった。
彼は、人生の不思議を感じるとともに、「あの時、人生をあきらめないでよかった。このビジネスは私の人生そのものだ」と、彼は心から思ったという。
カーネルは特別に選ばれた人ではない。
優れた才能があるわけでも、特殊な能力が備わっていたわけでもない。あえていえば、私たちと何も変わりない普通の人だった。
何が私たちと違うのかといえば、数多くの失敗をくり返してきたという点だろうね。
そして、常に前を見て生きていること。
決して諦めないという心。
常にチャレンジし、恐れないという心。
そんなところが小さな子供時代に養われていたのかもしれない。
8.カーネルの失敗と挫折人生
カーネルには30代までに次のような職歴だった。
◇十歳で農場の手伝い
◇その後、ニ回農場を移りかわる
◇軍隊入隊
◇サザン鉄道勤務
◇ノーフォーク・アンド・ウエスタン鉄道勤務
◇イリノイセントラル鉄道
◇弁護士(免許はない)法律を学ぶ
◇ペンシルバニア鉄道勤務
◇保険外交員勤務
◇商工会議所の秘書
◇アセリンガスランプの製造販売
◇ミッシュランタイヤのセールスマン
◇ガソリンスタンド経営
と、わかっているだけでもこれだけ仕事を変えている。それだけ、どんな仕事もうまくいかなかったことがわかる。
このように、他の人と違う「抜きんでた才能」があるわけでないことがわかる。
さらに、レストランビジネスなどにはまったく無関係でした。
他の人と異なる点は、ありとあらゆる仕事を変えてきたことぐらいでした。
彼は晩年、「自分に特別な才能があったとは思えない。成功できた最大の理由は、すべてに全力で一生懸命に働いたことだ」と答えていた。
挫折と、そこから立ち上がることを、何度も何度も自分の人生で繰り返してきた彼の心には、「たとえどんな状況に置かれようとも、決して自分からは諦めることはしない」という不屈の魂が宿っていた。
彼は、何か自分にできることを見つけて、生涯働き続けると神に誓ったことを守り続けた。
9.愛する母とともに
1964年、ケンタッキー・フライドチキンの店舗数は600店を越え、3,700万ドルの年間利益を上げる企業に成長。
(さらに5年後の1969年、フランチャイズ加盟店は3,500店となり、株式市場の公開を行う)。
彼は、74歳にしてすべての権利を譲り、ミリオンオーナーになったけれど、彼の「生涯現役」「一生働き続ける」という精神は少しも衰えず、それどころかさらに激しく活動し続けた。第一線を退いた後も、彼は世界中のケンタッキー・フライドチキンを精力的に回って歩いた。
彼は80歳を過ぎても、毎年アメリカ国内だけでも50万マイル以上を旅行しました。これは1年間にアメリカ大陸を東海岸から西海岸まで80回近く往復したことになる。
1980年の暮れ、90歳のカーネルは(フランチャイズの数5,000店舗を越える)多くの人たちと最後の別れを告げながら、12月16日にケンタッキー州でこの世を去った。
「ブロークン(一文無し)になってから死ぬんだ」
「このビジネスを成功させてくれたら、あなたの取り分をお渡しします…」
カーネルは六五歳に約束した神との約束を守った…。
coucouさんです~
みなさん、ごきげんよう~
65歳からの出発~
カーネル・サンダースの物語~
いかがでしょう?
この物語りはね、「coucouさんのお仕事論」の原点ともいえるもので、今までも様々な出版物で公表し、このcoucouさんのnote過去記事のリメイク版なんだ。
そしてね、誰も知らないcoucouさんの妄想も加わっている。
このcoucouさんの妄想話を勝手に他の人が使っているようだけれど、これが原点、原版なんだよ~(別に騒がないようにしているけれどね)
だって、coucouさんのバイブルなんだもの~
カーネルはね、母と共に生き続けたんだ。
そしてね、お母さんに逢いに行ったんだと思う。
「母さん、僕はあのときの子どもじゃあないんだよ~失敗もたくさんしたけれど、世界中に僕のお母さんの味を届けたんだ…」といっているのかも知れない。
もう、これ以上、書ききれないエピソードがたくさんありすぎ~
ご要望があればみんなの知らないカーネルさんのエピソードがあるので、「coucouさんのお仕事論」で取り上げるね~
最後に、ケンタッキーフライドチキンのサンダース人形はね、日本だけのモノなんだよ。アメリカにもヨーロッパにも存在していない。最近になって中国など一部アジアに置かれているけれど、これにも深い意味がある。
もう、ここまでで、
8,500文字の大長編となってしまった~
またまた、反省~
どうしても短く伝えられない、coucouさんの能力のなさ~
でもね、ここまで制覇してくれた人には敬意を申し上げます。
まとめるのも大変だけれど、読む人はもっと大変だもんね~
お許しくださいね~
「coucouさんのお仕事論」でした~
みなさまには、心から、敬意と感謝申し上げます~
coucouさんのホームページ~おひまなときに見てね~
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