【私たちは跳ばねばならない】超訳 言志録 第二十条
幕末の名著「言志四録」に学ぶ
東洋の生き方学 No.20
言志録 第二十条
『肉体を越えていく』
【百尺竿頭に立ちて須く歩を進めよ】
引用: 無門関
正にこの事を佐藤一斎先生は言ったのだろう。
百尺の竿頭(竿の先)に立つ。
その先には何もない。断崖絶壁である。
それでも「歩を進めよ」と言うのである。
私たちは竿の上にいる。
竿から落ちぬように竿頭を目指し歩いてきた。
竿頭に辿り着いたとき、
そこには何もない事を知った。
引き返すか、居座るか、歩を進めるか。
そこに何も無いからこそ、
「歩を進める」ことに価値がある。
目に見えるものばかりに囚われていれば、
「歩を進める」ことは出来ない。
面に精神が集中するとは、
肉体などの目に見える物事に囚われるということである。
この条文で一斎先生は
"精神を収斂して、諸を背に棲ましむべし"
と言った。
背に棲ましむべしとは、
単に背中に精神を宿すというような意味ではない。
背とは裏である。
精神によって、裏を担えと言っている。
そして続くのが
"方に能く其の身を忘れて、身真に我が有と為らん"
という言葉である。
その身を忘れるとは、肉体の跳躍を意味する。
まさに【百尺竿頭に立ちて須く歩を進めよ】である。
つまり、精神によって生きるということである。
裏を担う精神は、目には見えない。
しかし、目に見えぬ精神の存在こそが
“身真に我が有と為す"のである。
精神が人間を真の人間足らしめているのだ。
私たちは跳ばなければならない。
言志録 佐藤一斎著 第二十条
【原文】
人の精神尽く面に在れば、物を遂いて妄動すること免れず。
須らく精神を収斂して、諸を背に棲ましむべし。
方に能く其の身を忘れて、身真に吾が有と為らん。
【訳文】
心が顔面に集中していると、外界に囚われ、判断を間違え易くなる。
故に、心を引き締めて、心を後方の背中に住まわせるようにし、
判断に誤りなきようにするのがよい。
物欲を忘れてこそ、外物に惑わされない自分となる。