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京都に行きたいと思い続けたい

毎年京都に一人旅に行く。23辺りから毎年。
京都の何が好きかと言われたら雰囲気としか言えないのだけれど、歴史や古めかしい建造物が好きだからだし、それでいて都会もすぐ行けるし、京言葉も好きだ。
しかし、そのどれもが毎年飽きもせず同じところに行く理由たり得るかと言えばそうでもないのかもしれない。

中学生の修学旅行で行った旅行先を大人になってから自分の稼いだお金で初めて行った時、何かを感じた。
中学生の時なんて、動と静で言うと、動のものしか興味を持てない。映画は爆発して欲しいし、球技は見るよりやったほうが楽しいし、寝るより起きていたい。
そんな自分が当時来た同じ場所に、社会人となり酸いも甘いも経験した同じようで違う僕が行くと、寺や空気や景色みたいな思いっきり静のコンテンツを楽しめるようになっていた。この成長の実感が僕を虜にした。
そう対外的には説明しているのだけれど、実際は少し違って、やっぱり楽しめなかったんだと思う。
けれども、そんなことを自分で認めてしまったら、この数年間の自分を否定してしまうようで怖かったのかもしれない。
一人で旅して京都の雰囲気を楽しむ若人。この誰にも求められていない理想を崩したくなくて「楽しかった」「好きだ」と旅行から帰って周りの友人に言ったあの時から僕は「京都が好き」と言う設定の男性になった。
僕にとって京都は永遠に背伸びができる場所なのかもしれない。

中学生のあの頃、少し歴史に詳しかった僕は、修学旅行を楽しみにしていた。
持ち前のうんちくで、クラスのみんなに語った。けれども、クラスのみんなは興味ないみたいだ。
京都について、模擬刀を買った。少ないお小遣いの中から初日に購入した模擬刀を見せびらかしても、最初の1、2分しか盛り上がらなかった。
金閣寺を走って出た。拝観料を払ったのに、せっかく金なのに。でも、特にこの異常行動にツッコミをくれる人はいなかった。
人気者になりたかったのかもしれない。変なやつだと言われたかったのかもしれない。
僕のオーディエンスの求めている事を全く考えていない独りよがりな背伸びは、バランスを崩して無意味に終わった。

大人になって一人旅で京都に行った。
みんなといったほうが楽しいと思った。
けれども、好きだと、楽しかったと言いはった。
これも背伸びだ。

23歳頃から通っている京都は毎回背伸びした。
自分探しではないけど、今持ってない何かを見つけようとして、無理に行った。
さらに大人になり、神社仏閣は本当に好きになった。知識もついて、視野も広がりあの日背伸びして見ようとした景色を地に足つけて見れるようになった。
年に1回しか行かないのに、行きつけのバーを作り、また背伸びして京都を楽しむ。
どれだけ成長しようが、背伸びしてギリギリ見れる向こう側って言うのが実は一番価値のある景色で、それこそが一番楽しいのかもしれない。
背伸びすると、天井に頭がぶつかるその日が来ないことを願う。
まだまだ京都に行きたいと思い続けていたい。

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