「文を書く」と「本を書く」は全然ちがうらしいね

12月1日の文学フリマに出店する
暇真(いとま)です。

でも全く、本ができてません。
過去の自分の文章を「お金を払って買ってもらうもの」として読み返すと、とんでも無く恥ずかしい。申し訳ない。いったい誰が読むんだ!?何の目的で??となる。

お金を払って買っていった人がつまらないと感じるんじゃないかって考えると、買ってもらうのが怖い。でも、だからと言って誰も手に取ってくれなかったら、それはそれで悲しい。

目の前を素通りしていく来場者、隣のブースにできる行列、持ち帰れないほどの在庫。そういうのを想像してたら、なんだか居たたまれない気持ちになってきた。

ってかまず、本が完成するかすら怪しい。
毎日noteを書いてたら、本になるだろと思ってたけど、
「文を書く」と「本を書く」って全然ちがう。

文を書く=0→1/そこにある感情を文字に変換
本を書く=1→10/文字の編集や構成作業…というイメージ。

私は普段、その日その時の気持ちをnoteに書き殴っているから、感情を文字に変換する作業には慣れているのだけど、それをそのままかき集めても本という感じにならない。時系列を考えたり、説明を加えたり、おもしろみを加えたりする必要があって、頭がこんがらがる。

これさっき言いましたっけ?
ちょっとしつこすぎます??
なんだか私かっこつけてますかね??

となって、遅々として進まない。
正確には、進めようと思えば進むのだけど、書き上げたものに対して「だから何?」というインナーボイスが大きすぎて、進んだ分以上に消す羽目になる。本をつくるって難しいね。

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暇真
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