別れは証
昨日、二年間に及ぶゼミ活動が終了した。それに伴い、大学を卒業するために必要な全課程を無事に修了することが出来た。1,2年生の時はコロナで殆ど大学に通えず授業で友達を作ることができなかった自分にとって、半強制的に同じ時間、空間を他人と共有しなければならないゼミは、時に面倒くさく、時に煩わしさを伴うものであり、しかしいつのまにか、自分でも思っている以上に大切な居場所になっていたことに、今日気づいたのだ。
自分の大切は、いつの間にか出来上がっているのだなというおはなし。
冒頭にも書いてあるとおり、昨日の活動を以て私のゼミ活動は終了した。
昨日の時点では特段感傷に浸ることもなく、
「ああ、終わったんだなあ」
と思うだけだった。さすがに大学生活最後の活動だったのでそのまま帰ることはせず、18時から居酒屋を予約し、その時間まで皆で空き教室を探し、トランプをしながら時間を潰していた。
居酒屋には3時間ほど滞在し、酒を飲みながらそれなりに楽しく会話をして過ごした。
「結婚をするかしないか」という議題が1番盛り上がって、私以外殆どが結婚をしたくない派だった。私のゼミは学部の性質上、所謂「オタク」が多く集まっており、皆それぞれの趣味に没頭して一人の時間を満喫しているため納得感はあった。自分自身そういった趣味を持っているわけではないので、この二年間彼らの事をちょっとうらやましく思ったりもしていた。
21時頃居酒屋を出て、まだ帰りたくない組と帰る組に分かれた。私は彼女に帰ると言っていたため、帰る組(と言っても自分以外に2人しかいなかったのだが)のメンバーと一緒に帰路についた。そのメンバーとも別れ1人になった帰り道、特に意識はしていなかったがずっと考え事をしていた。
「自分にとって大切なものって何だろう」
こんなことを考えている時点で大分おセンチになっているのだが、このときはそんなことも気にせずただただ帰り道を歩いていた。
そして明確に寂寥感を感じたのは今日になってからだった。姉を車で駅まで送った帰り、何故かそのまま帰る気にはなれず家を通り過ぎ、そのまま車を走らせた。特に目的地も無いままふらふらと彷徨っているとコンビニが見えたので、そこに一旦車を止めようと思い駐車場に入っていくとなにやら道の反対側に上へと続く階段が見えた。興味をそそられ階段を上っていくと、そこにはかなり大きめの公園が広がっていた。
そこには一本の木が生えていた。普段なら別に気にすることはない、なんてことは無い木であったが、そのときはやけに興味を惹かれた。
「面白い形してるなあ」と思ったのだ。
そしてこのときに気づいたのだ。
「なんてことの無い木を面白いと感じられるようになったのは、間違いなくゼミで幾度もフィールドワークを繰り返してきたからだ。」
と。
(私のゼミ活動については以下の記事で内容に触れているので興味があれば呼んで頂きたい)
そして同時に
「もうゼミのメンバーと一緒にフィールドワークをする事もないんだな」
いうなんとも言えない寂しさ、もの悲しさのようなものを感じた。
そして私は思ったのだ。
「もうゼミでフィールドワークをすることはない。なら最後の総まとめとして、今まで培ってきたものを駆使して最後の1人フィールドワークをやろう」と。
そして私はゼミのモットーである
「何でも面白がる」
ということを念頭に置きながら公園とその周辺を散策し始めた。
以下に私が見つけたものを載せていこうと思う。
とまあこんな感じでそれなりに楽しく歩いていたのだが、1人フィールドワークを続けるにつれ寂しさがどんどん顔を出すようになってきた。
「あいつだったらあれに目を付けそうだな」
とか
「この看板面白いな!フィールドワークで見つけてたら絶対皆で盛り上がってたな!」
とか
「皆でワイワイしながら歩いたの楽しかったなー」
とかとか。
それまでの思い出や自分の中にある彼らのイメージが次々と湧き出してきて止まらなくなってしまったのだ。
これは自分にとっても意外なことだった。
「いつの間にかゼミを恋しいと思っている自分に驚いたんですよね。」
同期のゼミ生とも普段から遊ぶような仲ではないし、ゼミ以外では殆ど顔を合わせたこともない。それなのに寂しさが、懐かしさがどんどんあふれ出してくる。
一体自分はどうしてしまったんだろう。そこまで積極的に参加していたわけではない。下手したら遅刻・欠席の回数の方が出席数を上回っているかもれない。それなのにこんなにセンチメンタルになっている自分に滑稽みすら覚えた。
ゼミ長にこのことを伝えたら「大してちゃんと参加していたわけでもないおまえが何を言ってるんだ」と一蹴されるかもしれない。でもどうしようもないのだ。だってその寂しさが確かに自分の体の中に残っているから。ゼミの皆に会いたい。ゼミの皆を恋しく思う気持ちが確かにそこにあるから。その事実だけはどうしようもなくて、そして徐々にそんな滑稽な自分の事すら愛おしく思えた。
これまでの人生で私はあまりこういう種類の気持ちを味わったことがなかった。小学校、中学校、高校と、卒業と共にそれまで慣れ親しんでいた人たちとの分かれは幾度も経験してきた。しかし卒業しても彼らとの関係が切れるわけではないし、その気になればまたいつでも会えると思っていたため、そこまで寂しさは感じなかった。中学校卒業時には高校、高校卒業時には大学という新しい環境や出会いが自分を待っているというわくわく感もあったことも、その一因かもしれない。
しかしゼミの同期はそこまで親しい間柄でもない。気軽に遊びに誘えるほどの関係でも無い。一度別れてしまえば、その後はもう二度と会えない可能性の方が高いのだ。でも2年という、決して短くはない時間を共に過ごしてきた。そしてその時間を、空間を、私はきっと、知らず知らずのうちに愛してしまっていたのだと思う。
「別れてから好きだったことに気づく」というのはよくある話だが、まさにそれだった。自分の中で、ゼミ活動と同期一人一人が占める割合が、いつの間にかどんどん大きくなって、私はそれに気づけずにいたということに、やっと気づけたのだ。
ああなんて自分は馬鹿なんだ。こんな気持ちになるなんて。
でもその寂しさ、なにか実体のない大きなものを、それでも確かに失った感覚も悪くはないなと思った。だってそれは、自分にとってそれだけ大切だったものを、確かに持っていたという証拠に他ならないから。自分以外の他者を、それだけ大切に思えたという成長の証だと思えたから。
今考えるとその喪失感こそが、自分がこの大学生活で得た最高の成果だったのではないかというような気もしている。
きっとこれから先、また私は似たようなことを繰り返すのだろう。
いつの間にか自分にとって大切なものが出来て、それを自覚せずに手放して寂しさと懐かしさに包まれて後悔する。喪失感を感じる。でもその喪失感も、また愛しく感じることが出来るのだと思う。
そして何回も、何十回も、何百回も出会いと別れを繰り返して、いつか大切なものが自分と共にある内に大切だと自覚できるようになればいいなと思う。その先には確実に別れがまっている。でもその痛みこそが、自分が何かを大切に出来たという、これ以上にない最高に愛しい勲章なのである。