解決なんて本当はできないから
解決と思っていた件が実は決着だったというお話。
現代社会をふつうに生きていると
仕事や生活でいろいな問題に直面します。
まぁ問題と認識しなければのほほーん^^と
楽しく生きていくことはできるのですが
現実はたったひとりで生きていく
映画「I Am Legend」の世界ではないので
ほどよく(人によってはたくさんw)
問題にぶち当たります。
そのとき、みなさんどうしてますか?
意気揚々とモチベが高い人たちは問題を
解決しようとがんばるでしょうし
意気消沈の現状耐える人たちは問題を
傍観、先送りすることもあるでしょう。
でも「問題」という言葉を使ってみると
それと1セットで「解決」という言葉が
もれなくついてきます。
うん、だいたい1セット(笑)。
これはどこにいっても誰と話しても同じ。
問題は解決するというのが暗黙の了解と
なっている気がします。
自己アピールなどでよく使われる
「問題解決が得意です」という表現。
これは聞く側からすれば最初の印象は
「ふ~ん、で?(*'▽')」なのですが
言う側はマジメにアピールするんですね。
もちろんアピールしてくる内容には
耳を傾けますが、問題解決なんて実際は
できていないケースがほとんどだと思う。
解決した気になっているだけで
実際は決着なんだよね。
会議やってたら誰かが言うでしょう。
「この話の落としどころをどうしよう」
論点を戦わせながら妥協点を探る。
民主的と言われる日本人の会議の多くは
誰かが主張して誰かが妥協して終わる。
その割合が内容によって異なるだけ。
その割合のバランスがとれていたら
よい会議だったと評価され
どちらかに傾き過ぎれば
独裁的や妥協的などと評価される。
つまり解決なんて本来は到底ありえない。
あるのは決着のみ。
決着は必ず勝者と敗者を生む。
話題内容や参加者によって勝者観・敗者観は
まちまちだけれど、必ず両者は存在する。
「いやそんなことなくて円満に解決できる」
と言う人には、「本当に納得してる?」と
聞いてみたい。
そんな人はおそらく一人もいないと思います。
みんな、思考のバランスとまわりとの共存を
測りながら生きている。だから問題解決などと
いう言葉は「体のいい言葉」なんだね。
どうやっても問題が解決できないのならば
それを決着だと捉えることにして
自分がこのケースでは勝者・敗者のどちらを
選択するのか。
ここは勝者にこだわるけれど
あそこは敗者でも構わない。
そういう「決着の結果のバランスを取る」方が
世界を生きていく上で有効なのでしょう。
この件は別の記事でもっと深く掘り下げようと
思ってますが、これを考えるきっかけになった
言葉だけ書いて止めておきます。
目にした👆は極端な表現ではありますが
「話せばわかる」という論点に真っ向から
逆の立場で挑んでいる表現でした。
さぁ、どうなんだろうね~😅
ふと考えてみるのもいいかもしれない。