朱天文『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』
1980年代に起きた新人監督らによる一種の映画運動〈台湾ニューウェーブ〉を脚本家の立場から担ってきた中心人物、朱天文(チュー・ティエンウェン)によるエッセイ集。あとがきにもある通り、回顧録ではなく当時書かれた同時代的文章が多く、彼女の経験に瑞々しく触れられる。
たとえばはじめて侯孝賢と出会った日、嫌なやつだったらどうしようと考えていると、侯孝賢が向田邦子好きだと知ってすっかり武装解除してしまう様子など微笑ましい。それをイメージさせる図録も豊富でとても可愛らしい一冊だ。
とりわけ感慨深いのは、侯孝賢と朱天文の邂逅が侯孝賢監督作品に質的変化を起こしていると感じ取れる点だろう。オリヴィエ・アサイヤスによるドキュメンタリー『HHH: 侯孝賢』(1997年)でも侯は「俺は男の世界に素晴らしさを感じる!」とぶちあげていたが、良い意味でも悪い意味でもやはり彼はホモソーシャルな世界に生きている。
その毒気を抜くのに朱天文が果たした役割がどれほど大きいか。彼女なくして21世紀の侯孝賢の「若返り」(つまり『黒衣の刺客』などにおける女性主人公の前景化)はなかったかもしれないと思うとその偉大さに頭が下がる。朱天文研究、余地ありまくりかも。
朱天文『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』樋口裕子・小坂史子編訳、竹書房、2021年