ドラマ『Shrink』最終回 うちの家族の謎がわかったかも2
ドラマを見て、
パーソナリティ症について、ネット上ではあるけれど、調べてみまして…素人ながら、母ときょうだいは、B群パーソナリティ症なのかもしれないと思いました。
もちろん、素人の決めつけは良くありませんが、なかなか理解できないことで不快に思ったり、家族内で口喧嘩になっていたことが。
ぁぁあ、こう言う考え方になる人もいるんだーとわかっただけで、これまでの不可解なことが、スゥぅぅぅと腑に落ちまして。
本当に、気持ちがスッキリしました。
ちなみに、前回はこんな気づきをnoteしてみています。
で、B群パーソナリティ症を改めて書き出してみますとコチラ👇
わからない、不可解、なぜ?
コレが実に多くて…
介護期間に母がきょうだいの元へ出て行ってしまって、二人が密接になってからは、
私の感覚としては、ゾンビのような存在になっていきました。
いつ襲撃に来るんだろう?
いつ家に火をつけられるだろう?
などと、
本当に父と怯えていた時も多々ありました。
私は、小さい時から、
母と母を連れ出たきょうだいの存在がなんとなく苦しくて…早くこの家から出たい、独立したいと言う気持ちが強かったことを思い出しました。
こんなことされた
あんな思いをした
いっぱいこのnoteに書き連ねたい気持ちもありますが(実際、書いてましたが…)
そりゃもうコトがありすぎて、手が腱鞘炎になって、ページもえぐいコトになりますので、やめとくことにしました😅
で、
知って、
さらに調べてみることで…
ただしい理解になってるかはわかりませんが。
近しい人の中にも、
違う考え方や物事の受け取り方をする人
それに対して全く異なる反応をする人
がいるんだ!
というヒントをいただけた気がします。
わからない
知らない
は、本当に不安を煽りますね。
そして、
わかろうとして知ることと
脅迫的に、押し付け的に知ることとは
学びも深さも全く違うなと思いました。
あと、今、私は、彼女たちと対話が難しい状態にあります。
私は、なんとか黙っておれていますが、彼女たちの声が昂ぶり荒ぶってくると、動悸は早くなりますし、手が震えることもあります。
かなりストレスです。
対面で当事者だけで話すのは無理です。
なぜなら、他に人がいないことを使って、また作話をして陥れたりのネタを渡すことになるのです。(相続の問題も片付いていないし、あちらには弁護士さんがいるので…)
私の心もギューっとなりますし、必ず、夫や親戚などに同席をしてもらい、当人同士だけで話をしないようにしています。
ある種、私にもPTSD?のような症状が出てきていたんだと理解しています。
そして、苦しかったのは、もう一人のきょうだいが、父の初盆に来れなかったことです。
なぜ、こんなにも小さな相続が片付かない…
なぜ、法事で集まるたびに不快になる?
なぜ、私だけが段取りをして、こんなに詰めよられなければ…
と辛く感じていました。
親戚も、こないきょうだいに電話をして交渉してくれましたが。
私はどこかで「もういいよ」って思いがあって、しつこく誘うことをしませんでした。
そのきょうだいのことを諦めたと思っていたんです。このドラマを見るまでは。
でも、ドラマを見て思ったことがあります。
パーソナリティ症が発症している人には、適切な治療が必要であり、治療をする医療関係者は適切な距離がいるということ。
当人が
重要な人、大切な人、特別な人と認定した場合(例えば主治医、家族、恋人)
急激なアプローチや揺さぶりをかけてくるとありました。
「この人は、どんなことがあっても私の味方」
であってほしいから、試してくるんだそうです。いろんな裏切りで試してくるんだそうです。
だから、当人が日常生活に戻り、コミュニケーション能力をあげていくには、
(今回のドラマでは『自立』を目標にトレーニングを積んでいかれましたが)
『自立』が必要で。
必要以上に優しくすることは、その『自立』の妨げとなることがわかりました。
初盆に来れなかったきょうだいは、過去に母たちとの間でいろいろ巻き込まれたようで…
「この相続を機に縁を切りたい」と強くいってきました。
母に、パーソナリティ症が発症しているということは…
きっと、来れなかったきょうだいにも私にも、多少の傾向があるかもしれません。
「助けて」という喚きや叫びに、密に寄ることは、『自立』の妨げでもあり、我々が共依存になっていたかもしれないなぁと思うのです。
冷たい!助けてくれない!
これくらいしてくれたっていいじゃない!
いろいろ思われたり、喚かれたりするかもですが、
きょうだいが会いたくないと思う気持ちと
私が手を貸さない、
当人だけで話したくない気持ちは、
ごく自然な生理的な反応であって。
冷たいわけでなく、二次的症病の発症を防ぐ行為だったのだと思えました。
家族だから、直接手を貸さねば愛情がないといわけではないのだと。
距離をとり、できるだけ安心安全にお互いが過ごせることがだいじであるということ。
できるだけ適切な対応をし、日常生活に戻れる治療を支える。
そう言う考え方もあっていいのだと、学ぶことができました。
会いに来れなくなったきょうだいは、いい歳をしています。
きっと亡くなった父だって、元気で生きててくれればもう十分と言うでしょう。
パーソナリティ症で、マダラ認知症になってる母だって、本体のどこかには子を思う心は残っていて、かわいい長子には会えなくとも元気でいてほしい事と思います。
何も家族だからと、病気になってまで、手に手を取る必要はないんだと。命や心を守るためならば、距離があろうと別にいいじゃないか!
と思えています。
本当に、彼女たちが生きづらさをなくしたいと思えた時には、必ず周りにいい出会いがあることでしょう。
私はそれまで、いや、これからずっと、
彼女たちの本当の『自立』を願って、適切な距離を保っていきたいと思います。
長くなりましたが…
心の整理のnoteとします。
追記)ふと、思ったこと。
パーソナリティ症と言うのを知って、その傾向がある人は、高齢になって認知症と合併したらば…どうなんだろう?と母を思い返しました。
いろんな高齢者の方々がいて、どうしてもトラブルになりがちな方がいるとして。
それは、
持ち合わせた特性 ✖️ 環境
で発症したパーソナリティ症だったりするのでは?
環境という源が認知力の低下で、ストレスを抱えて発症しているのであれば…もしかして、高齢者で起こるトラブルの対処法やアプローチは別にもあるんじゃないかしら?と。
家族だけでなんとかしないと!ではなく、プロのお力、アドバイスを借りて、やり方、考え方捉え方を変えると、実はうまくいくこともあったのでは?とか思いました。
やっぱり、10人いたら10人様の人生があり、個性があり、良い日悪い日があるのだと思いました☺️
長くなりましたが
ここまで読んでくださった方がいらしたら、
ありがとうございました😌