ぼっち在宅介護 にんじんに学ぶ、ヨトウムシに学ぶ
※めっさ長いです。
ご気分悪い方読み飛ばしてください。
昨日、にんじん畑に異変を感じました。
ふさふさしていたにんじんです。👇
一週間前です。
軽めに間引きをしてみて…
ふさふさ感にニンマリ…
一週間経ってみると…
後ろの方に葉っぱがない!👆
にんじんは、トマトを元気に育てたくて、混植したんですが、にんじんが先にやられるなんて!
アライグマ?
ハクビシン?
なんなん!
手前の半分だけでも死守してやる!と検索をしてみると、ガが卵を産みつけにきてるらしく…
ヨトウムシというのが、夜な夜な柔らかめな葉っぱをハムハム…食い散らかしているらしいそうです。
昨日は、にんじんのところでは見つけられなかったけれど…
ひまわり畑では、元気を失ったひまわりの根元で寝ていました…🐛
申し訳ないですが、隣の空き地に行っていただきました。
で、今日。
先頭集団もやられてました…👆
ひぇ〜
にんじんは生きているのか?
と軽く掘ってみると…
ヨトウムシが…昼寝してました…🐛
申し訳ないけど、隣の空き地に行っていただきました。
なんで雑草食べないのに、育ててるものはたべちゃうのよ!と怒ってました!
昼間に移動販売車がきて、買い物の際、先輩お姉さん方にその話していると…
「あー、若いウチの柔らかい葉っぱは美味しいから食べにくるわな〜。ちっちゃいちっちゃいうちやと、すぐあかんなるなぁ。」
ちっちゃいウチはあかんくなる…?
ということは?
根がしっかりしてる子たちならば、再生もあるということか?
そういえば、よくにんじんに葉っぱを生やしてしまう…
土から引っこ抜かれても、芽を出したりできるんだから、、、
そこそこ育っていたとしたら、、、
また葉っぱも育つかも知れない?
ハゲ坊主になった方をよーく見ると、雑草の隙間から芽が!👇
よし!💪
いただける恵みはいただいて、手にできなかった子たちは、また誰かのお腹におさまっているということで…
そして、ヨトウムシ。
だいぶん美味しい若葉を食べれたから、少しゴワゴワした葉っぱも食べれることでしょう。
空き地に移動してもらったヨトウムシの将来は天に任せるとします。
調べてみますと…
ヨトウムシは、夜行性。かなりの草の雑食さんで、雑草も食べるそうです。
が、柔らかい葉っぱは大好物らしく、親のヨトウガさんが、我が息子には柔らかい葉っぱを専用に食べさせてやろうと、畑を探して飛んでくるようです。
そして、穴を掘るとすぐ見つかったのは、穴掘りが下手くそらしく、体を隠すくらい潜るのに20分くらいかかるとか…確かに、土はさっとしかかかってなくて、すぐに見つかりましたわ。潜るのが嫌な子は葉裏にいたり、ひどいと根元その場で寝ていたりするそうです。🤣
(親の心子知らずですねー)
今回も、夜な夜な食べ尽くしたしっぺ返しに、雑草まみれの空き地に引っ越すことになってるとはつゆ知らず、爆眠中だったのでしょう。
自然のサラダバー、堪能してください。
総括。
葉をかじられ、目に見えるもんを持っていかれたとて、根がガッツリ育っていたら、またゼロから頑張れる。
が、ひよひよと育っていたら、、、葉っぱを食いちぎられたら、だいぶの一苦労。下手したら命を落とすことになる。ただ、死んじゃあない。
そ、自分の生命力次第ということ。
親が良かれと思って贅沢のできる環境を与えると、危険感知力が鈍くなる。
ある日、丸裸で掘り出されてしまうこともあるかもしれない。
が、その気になったら、なんでも食べれるし、どこでも頑張れる。
動じないというのはそれも武器。
なんだか、介護や人性と被ります。
最近、こういう小さな世界と広い田畑に教わることが多いです。
私は環境学を学んだ系歴があります。が、
計画とかデザインが中心だったので、生物よりでもなく物理よりでもない、宙ぶらりん人間に成長しました。
母は『何者か』になって欲しいと、我が子たちや孫たちに期待を寄せて応援してきていたように思います。
が、まぁ、期待を寄せるというのは…
ある意味、自分がそうなりたかったなぁ…という思いをのせるところが多分にあると思うんです。
子や孫の中で、ほんのちょっぴりつまづくやつがいた時、
老いて認知症になった母は…
「そんなんいつまでもまってられへんわ!」と不機嫌そうに私にいいました。(私はその時、認知症をあまり理解できてませんでしたし、母も家族も認知症とわかっていませんでした。)
言われた本人がそれを聞いたらどう思うのか?考えたらゾッとしました。私は…母に、「私はあなたの『最後まで味方』やで」と言ってあげてほしかったんです。
けど、それもまた母への私の期待や理想の押し付けでしかなく、親が親なら子も子やなぁと後から思ったりもしました。
認知症が忍び寄ってくる不安の中、母が並べられる言葉がやっとそれだけだったのかもしれないし。やはり、本音かもしれません。
(若い時から母ちょっと上手くて、周りに言わない方がいいことは周りや父の耳には入れず、どうしてもボヤキたいことをちらっと私に漏らしていました)
それをポロっと私に言ったということは、私が他言しないと思ってたからかも知らないし、言わずにいるには苦しいくらい表ではその子を応援していたのかもしれません。
その子への愛と期待がとても強かったのかもしれません。
本当のところはわかりません。
たぶん、私がこんな風になったのも、全く母の希望にはそってないと思います。
母は、私に「お母さんとあなたは仲良しだもんねー」としきりに言ってました。
付かず離れず味方でいる代わりに味方でいてね…という意味やったように感じています。
が、そんなことはいいのです。
母が期待したのかどうかとか、その期待通りだったかどうかとか。
それは、母の人生の課題だし。
また話せる時に、母が話したければ話せばいいことで。
母が攻略していくべき心理かと思っています。
(私の人生の課題ではありませんからねー)
介護を通じて、そこに辿り着いた私は、今、自分だけの「環境学」みたいなものを見つけた気がしています。
人生で出会うのは人だけじゃない。
何物でもない、価値をはかれない環境学があってもいいんだ!
設計でも建築でもない。
農業らしくもない不完全な農業の中で、小さなやつらから教わる自然という世界。
小さくてでっかい、掴みどころない世界。
ぁぁぁぁ、これが私の『環境学だ!』と思っています。
と、本当に、ここ数年思っていたんです。
大学行かせてくれてありがとう!
机の上で学んだこととは違うけど、そことの比較や検討の中で、私らしい楽しさはここにある気がする!と。
そしたら…
朝、『らんまん』で万太郎さんが、
「ワシの植物学を見つけました!」と言われていて…ぇ。
「あー!言われたー!」となりました(笑)
いや、もちろん、別物ですし、ドラマだし、
先とか後とかそんなんどうでもええことです。
万太郎さんは立派な何者かになられますし、お金にもなる時がきますし(笑)
ついね、親の影響というか、社会というか…
権利だとか、発明だとか、誰が先でどうやこうやいうシステムに気持ちが持ってかれそうになりますね。あかんあかん。
はっきり言って、私のこの辺りの小さな世界、どうでもいいところで競い合う必要なんか全然ないのに(笑)
つい、人とかと比べて、自分の位置を確かめてしまう症状が出てしまいます。
そう、長くなりましたけど…
人は人
私は私
虫は虫
にんじんはにんじん
を生きているだけなんだ!
これが私の『環境学』
地球を救えはしないけど、
SDGsにもなってるかなってないかは知らんけど、でもええの。
生きていくのに困ってないから。
楽しいし、発見の毎日だから。
お読みくださった方々、長々と失礼しました。
ごめんなさいね。ありがとうございます。