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101回目 "Hide-and-Seek" by John Updike を読む。書き出しの文章が昔読んだ Pontito, a Tuscan hillside village に生まれ育った男の話(by Oliver Sacks)を思い出させたから。
Pontito, a Tuscan hillside village に生まれた男の話は東京大学教養学部の教科書(今や昔の教科書)"The Universe of English II" に採用された Oliver Sacks (脳・神経学者)の Essay, "The Landscape of His Dreams" です。
一方、今回読もうとしているのは John Updike の Essay, "Hide-and-Seek"、The New Yorker 誌、2001 年 11 月 5 日付に公開されたもので同誌のインターネット・サイト(2024 年 9 月 18 日現在)に公開されています。
この John Updike の Essay は Odessa(黒海に面した Ukraine の主要な港湾都市)に生まれた男、レーニンやスターリンが支配したソ連の社会で活動した作家、ジャーナリストであった Isaac Babel の生活と短編作品の双方を紹介・批評するものです。Babel の全作品を一冊にまとめた本(英訳)が、2001 年 11 月になって彼が残した妻と娘の努力で完成され、それに時を合わせ発表された John Updike の Essay です。
1. "Hide-and-Seek" と "The Landscape of His Dreams" それぞれの冒頭の文章は次の通りです。
[原文 1-1] "Hide-and-Seek": Issac Babel was born in the Moldavanka, a poor, raffish district of Odessa, in 1894, and died, it has been established only within the last ten years, in Moscow's Lubyanka prison, early in the morning on January 27, 1940. He was shot by a firing squad after a twenty-minute trial held the day before in the private chamber of Lavrenti Beria, the notorious head of the K.G.B.'s predecessor, the N.K.V.D.
[和訳 1-1] 《「かくれんぼ」と題されたエッセイ》 イサク・バベルはオデッサの貧しく荒んだ地区、モルダヴァンカで 1894 年に生まれ、長らくいつどこで死亡したのかは不明でした。モスクワのルビャンカ刑務所で 1940 年 1 月 27 日の早朝に亡くなったことが判明したのは今から 10 年足らず前になってのことでした。彼は 20 分間という短い裁判だけで判決を受け、射撃手によって翌日には処刑されました。裁判・判決を下されたのはあの悪名高いラブレンティ・ベリアにある NKVD(秘密警察、KGB の前身)の本部建屋にある非公開の部屋においてでした。
by John Updike, The New Yorker, 5 Nov. 2001 issue
[原文 1-2] "The Landscape of His Dreams": Franco Magnani was born in 1934 in Pontito, a Tuscan hillside village of some five hundred souls. Isolated, unchanging, it had an abundance of Etruscan tombs, as well as traditional patterns of farming, terracing, and olive and vine growing, going back more than two thousand years. Life was good and secure for Franco, until the outbreak of the war, until his father died, until the Nazis took over the village and evicted the townspeople. Life was never the same after this.
[和訳 1-2] 《「彼の夢に度々現れた風景」と題されたエッセイ》 フランコ・マグニャーニはトスカーナにある山すその傾斜地の村、ポンティートで 1934 年に生まれました。およそ 500 人が暮らす村でした。近くの村からも近代化からも切り離されていました。村にはエトルリア時代からのお墓が沢山残り、農耕作業も昔の手法そのままで、階段状に築かれた畑作、オリーブと葡萄の収穫作業は 2000 年以上もの昔と変わらないものでした。暮らしは心地よいもので安定していました。しかしそれは彼の父が亡くなるまでのことでした。ナチスがこの村を占領し、村人たちを徴兵していくまでのことでした。暮らしはそれ以降すっかり変わり果てました。
単語の一つひとつが同じではありませんが、私の頭にはあたかも双方が同じ文章であるかのごとく、同一の哀愁・響きと共に記憶されます。
文章を極限にまで精査し冗長さを切り捨てると誰が書こうと同じ文章、違いはそこに現れる数字、日付、固有名詞だけになるのではとの不安も頭をよぎります。
2. Babel の作品の特徴、魅力の源泉が分かり易く解説されます。
共産主義革命後のロシアの社会に生きるユダヤ人作家 Babel の人と成りを外観するスケッチが最初の4ページで一段落。第6ページではこの作家の作品の特徴、彼と同時代を生きた Hemingway が彼の作品の何を称賛したか、そして Babel が Kipling の手法から何を学んでいたのかが熱を込めて紹介されます。
Updike は Babel の死後に残された作品の蒐集編集・翻訳し完成された本の序文にある表現としながらも Babel を Kafka に比肩する作家だと評価します。
[原文 2-1] Paustovsky’s memoir illustrates Babel's aesthetic: "Writers, he said, should write in Kipling's iron-clad prose; authors should have the clearest possible notion of what was to come out of their pens. A short story must have the precision of a military communique or a bank check." He describes him at work: Babel would go up to his desk and stroke his manuscript cautiously as though it were a wild creature which has still not been properly domesticated. Often he would get up during the night and reread three or four pages by the light of an oil lamp. … He would always find a few unnecessary words and throw them out with malicious glee. He used to say, "Your language becomes clear and strong, not when you can no longer add a sentence but when you can no longer take away from it."
[和訳 2-1] ポストフスキーが書いた回想録は、バベルが、自身の美学的価値として「作家は誰であれ、キプリングが唱えた鉄の甲羅で固められた文章を書くことが必要です。作家は自身のペンから生まれる物事については、可能な限りを尽くして明確な理解に達していることが必須です。短編物語となると軍隊の間で交わされる通達文、あるいは銀行手形と同レベルの精度が要求されます。」と吐露したことを記載しています。 ポストフスキーは加えて、仕事中のバベルの様子を次の様にスケッチしています。自分の机に立ち向かうとこの男は、文章を、その文章がまだ十分には飼い馴らされていない一匹の野生の動物であるかのように注意深く書き綴ります。夜に寝床から起き出すことも良くあります。オイル・ランプの下で三・四ページを読み直します。・・・その度に二・三の不要な単語群が見つかるのが普通です。そうなるとそれらを陰で悪事を楽しむ男のごとく喜々として投げ捨てます。バベルが良く口にしたのは「文章が明確で力強いものになるのは、これ以上つけ加える必要がなくなった時ではなくて、それ以上取り除く部分がなくなった時です。」という調子です。
"Hide-and-Seek" by John Updike, The New Yorker, 5 Nov. 2001 issue
[原文 2-2] One thinks of Hemingway in Paris, honing language to a fresh starkness, and Hemingway had read Babel, as he stated in a 1936 letter to Ivan Kashkin: "Babel I know ever since his first stories were translated in French and the Red Cavalry came out. I like his writing very much." But Hemingway included no Babel in thousand-page anthology, "Men at War" (1942). "Red Cavalry" contains little war in the sense of clearly delineated military encounters; it is not even very clear that the Poles defeated the invasion of the Red Army, including the Cossack cavalry.
[和訳 2-2] ヘミングウェーがパリにあって、明確で力ある新鮮な表現の文章を生み出そうと工夫を凝らしている姿を思い描く、そんな方は決して少なくないでしょう。ヘミングウェーはバベルの作品を読んでいたのです。1936 年にイワン・カシュキンに送った彼の手紙にはこんな文があります。「バベルを私は知っています。彼の作品のいくつかが翻訳されてフランス語になった『赤軍の騎馬部隊』が出版された時からです。私は彼の文章に強く心を惹かれました。」 そのような賛辞の存在にも拘らず、彼が編纂した 1000 頁に及ぶ世界作品のコレクション(アンソロジー: 1942 年販)にはバベルの作品が全く収載されていません。『赤軍の騎馬部隊』には対峙する軍隊が戦闘を繰り広げるシーンをつまびらかに描く箇所が殆ど存在しません。またポーランド側が侵略してきた赤軍を殲滅した事実についてはあいまいにしか表現されていません。コサックでなる騎馬部隊も同時に殲滅されたはずですが。
by John Updike, The New Yorker, 5 Nov. 2001 issue
[原文 2-3] Although the thirty-four stories in "Red Cavalry," some of them not much longer than the italic vignettes of war that Hemingway inserted in his collection "In Our Time," are told from several points of view, including that of a hardened soldier, the predominant impression is of a noncombatant's struggle to trail the military action while hungry, sleep-deprived, and billeted among Galician civilians as confused and helpless as he. Shtetls abounded in the border region of western Ukraine and eastern Poland, and the story cycle traces not only a bookish young Jew's attempt to lean war -- to "fathom the soul of a fighter," to "understand life, to see what it actually is" -- but Babel's homecoming, by way of witnessed Jewish suffering, to his own Jewishness.
[和訳 2-3] 『赤軍の騎馬部隊』には 34 編の作品が収載されています。その内の数編はヘミングウェーの作品集『私たちの時代に』に収載されたイタリアを舞台に、戦争を話題にしたビニエッタ(極めて短い作品)よりもあまり長いとは言い難い短い作品群です。例外と言える一作品では、心が硬直してしまった結果周囲の人と意思疎通を拒絶している兵士たちが取り上げられています。しかし作品集収載の 34 編、それそれに異なる主題を持つとはいえ読者が受ける印象となると、戦闘行動ではなく、軍部隊の作戦行動に合わせそれに追いすがるように移動する非戦闘員が空腹を抱え、睡眠を取ることも叶わずに耐え凌ぐ苦しみ、時にはガリシアの地に暮らす人々、すなわち自分自身と同様に途方にくれた暮らしに耐えている外ない人々の家に投宿を命じられて経験する辛さが圧倒的です。語り手はウクライナ西部、東部ポーランドである国境地域に行き着き、そこにシュテトル(ユダヤ人の粗末な住まいが点在する一画)の存在を目にします。物語の進行は、読書好きの若いユダヤ人青年が戦争の何たるかを学び、戦闘員の魂の理解を深め、暮らしの何たるかを学び、生の暮らしの在り様を自身の目で経験することながら、それだけには留まりません。何人ものユダヤ人が背負っている苦しみを自分の目で見つめることで、この作品群はバベル自身が体感するユダヤ人の根源への帰還をも描き出します。
"Hide-and-Seek" by John Updike, The New Yorker, 5 Nov. 2001 issue
3. ロシア革命の後、ソ連の社会が大きな犠牲を伴い組織固めされていった時代、既に何世代にも渡りロシアに根付いていたユダヤ人の存在。
Isaac Babel の行動の跡をこの Essay で辿っていると、ウクライナやベラルーシの一帯に点在するように居住区域が形成され、この時代の遥か以前から既に何世代にも渡って暮らしていたとされるユダヤ人のことが気になりました。Wikipedia には 1880-1920 年の間に、二百万人以上のユダヤ人が米国やパレスチナに逃避した。それに比較すると極めて少人数ですが、ソ連国内に指定された寒村地帯に移動することを選んだユダヤ人もいたといった類の話があります。
John Simpson の "The Wars Against Saddam"(私の「86~94 回目」記事参照)、そしてつい先週まで読んでいた Atheists のいらだち・主張でなる "The Four Horsemen" において、著者、あるいは討論会への出席者の頭に居座るのがイスラエルという国です。その国の現政権のみならずその右派と分類される政治家たちの中の少なくない割合の人々が、この "Hide-and-Seek" の Babel が生きた時代にパレスチナ(国境の管理ができるほどの統治ができていない地域?)に移り住んできた人々の息子・娘、孫・孫娘であること、貧困・混乱の社会に育ちシオニズムに感化され頑張った多くの人々のいることが Wikipedia の記事を読むと解るのです。
Saul Bellow の短編 "The Bellarosa Connection" (私の「18 回目」記事参照)にあって、主人公の一人 Harry Fonstein はオーストリアからイタリアを経由で米国に逃げ延びたウクライナ(ロシアの一部)を出身地とするユダヤ人でした。彼はコツコツ貯めたお金でエルサレムを訪れるのですが、同行の妻をホテルに残し、イスラエル北方にある自分と祖先を共有するユダヤ人集落を尋ねることに一日を費やします。
Wikipedia の記事から、嘗てイスラエルの首相を務めた二人、Yitzhk Shamir と Ariel Sharon の経歴を少しだけですが以下に引用します。
[原文 3-1]《Yitzhk Shamir, born in 1915 in Ruzhany, Belarus; died in 2012 in Tel Aviv, Israel: Prime Minister during 1986-1992 & 1983-1984》イツーク・シャミルは 1915 年にベラルーシのルザニーに生まれ 2012 年にイスラエルのテル・アビブで死亡した。1986-1992 と 1983-1984 の二期、首相を務める。
Y Shamir was an Israeli politician and the seventh prime minister of Israel, serving two terms (1983-1984, 1986-1992). Before the establishment of the State of Israel, Shamir was a leader of the Zionist militant group Lehi, also known as the Stem Gang.
Yizhak Shamir grew up in interwar Poland. Shamir joined Betar, the paramilitary wing of Revisionist Zionist Ze'ev Jabotinsky's Hatzohar political party. In 1935, Shamir emigrated from Bialystok to British Palestine, where he worked in an accountant's office. Shamir joined the Revisionist Zionist Irgun paramilitary group led by Menachem Begin. During World War II the Irgun split over the question of whether to support Axis Powers against the British Empire. Avraham Stern and Shamir sought an alliance with Fascist Italy and Nazi Germany and formed the breakaway militia group Lehi. Lehi was unable to persuade the Axis powers to lend it support. Shamir led Lehi after Stern;s assassination in 1942. In 1944 Shamir married Lehi member Shulamit Levy. During the 1948 Palestine war, Lehi and the Irgun committed the Deir Yassin massacre of over 100 Palestinians. シャミルはイスラエルの政治家であって第七代の首相である。1986-1992 と 1983-1984 の二期、首相を務めた他、イスラエルの建国に先立つ期間にあってシオニストが組織した武装組織「レヒ」の指揮官を務め、その間ステム・ギャング(根幹ギャング)とあだ名された。
イツァーク・シャミルは戦争に明け暮れた時代のポーランドに生まれ「ベタル」と称する組織に参加する。「ベタル」は改革派シオニストのゼヴ・ジャボチンスキが率いる「ハッゾハー党」に付属する武力軍団であった。シャミルは 1935 年にビャリストックから英国が統治するパレスチナに移住し会計事務所に職を得た。シャミルはメナケム・ベギンが率いる改革派シオニストの武装団 「イルグン Irgun 」に参加した。この 「イルグン」は第二次大戦が始まると英国に敵対して枢軸側を支持するか否かで分裂する。アブラハム・スターンとシャミルはファシストのイタリアならびにナチのドイツと協力関係を作るべく、「レヒ Lehi 」なる分派軍団を組織したが枢軸側の説得に失敗する。シャミルはスターンが暗殺された後の 「レヒ」を率いることになる。「レヒ」のメンバーであったシュラミット・レビーと結婚。1948 年のパレスチナ戦争の間にはこの 「レヒ」は 「イルグン」と協力して 100 人以上のパレスチナ人を殺すことになったデイル・ヤシンの殺戮事件を引き起こすことになった。
[原文 3-2] 《Ariel Sharon, born in 1928, in Mandatory Palestine to Russian Jewish immigrants; died in 2014, in Ramat Gan, Israel: Prime Minister during 2001-2006》アリエル・シャロン:1928 年に英国が委任統治するパレスチナに、ロシアからの移民者を両親として生まれる。2014 年にイスラエル、ラマット・ガンにて死亡。2001-2006 の間、首相を務める。
Born in Kfar Malal in Mandatory Palestine to Russian Jewish immigrants, Ariel Sharon rose in the ranks of the Israeli Army from its creation in 1948, participating in the 1948 Palestine war as platoon commander of the Alexandroni Brigade and taking part in several battles. Sharon became an instrumental figure in the creation of Unit 101 and the reprisal operations, including the 1953 Qibya massacre, as well as in the 1956 Suez Crisis, the Six-Day War of 1967, the War of Attrition, and the Yom-Kippur War of 1973.
英国が委任統治するパレスチナのクハー・マラルにロシアからの移住者であった両親に生まれたアリエル・シャロンはイスラエルの軍隊で、その創設時から経歴を積み上げました。1948 年にはパレスチナ戦争に歩兵所隊長として従軍、アレキサンドロ作戦に参加し、幾つかの戦闘をも体験しました。シャロンは 101 部隊の創設に当りその中心的役割を果たし、反撃担当の実行部隊として 1953 年のオイビャ殺戮事件、更には 1956 年のスエズ危機、1967 年の6日戦争、1973 年の殲滅戦争とヨム・キプー戦争に参加しました。
Yitzhak Rabin called Sharon "the greatest field commander in our history". Upon leaving the military, Sharon entered politics, joining the Likud party, and served in a number of ministerial posts in Likud-led governments in 1977-92 and 1996-99. As Minister of Defense, he directed the 1982 Lebanon War. An official enquiry found that he bore "personal responsibility" for the Sabra and Shatila massacre of Palestinian refugees, for which he became known as the "Butcher of Beirut" among Arabs.
From the 1970s through to the 1990s, Sharon championed construction of Israeli settlements in the Israeli-occupied West Bank and Gaza Strip.
イツァーク・ラビン氏はシャロンのことを我々の歴史上最も偉大な戦場指揮官と呼びました。軍隊を離れたシャロンは政界に進出します。リクード党に入党、1977-92 年にはその党の内閣において多くの大臣級ポストを経験します。その間、1982 年には防衛相としてレバノン戦争を戦いました。ある内部資料開示請求への返答において多数のパレスチナ難民が殺戮されたサブラ・シャティラ事件への関与で個人的責任を問われることになり、その結果、シャロンはアラブ諸国からベイルートの虐殺職人と呼ばれることになりました。
1970 年代から 1990 年代にまでの期間、シャロンは先頭を切って走り続ける西岸占領地区とガザ長方形地区へのイスラエル人入植・住居建設活動の支援者でもありました。
4. Isaac Babel の作品のもう一つ重要な特徴:Symbolism。
Updike のこの Essay が取り上げている 「Russian Symbolists が Babel に与えた影響」をこの記事で触れないでは手抜かりの誹りを免れません。
Babel の沢山の短編のいたるところに現れる「読者をハッとさせる比喩表現」がこの Essay の第4ページにいくつも引用、例示されています。そのいずれもは、この Symbolism と称される表現の「強烈さ」を体感させてくれます。その中の二つは次の通りです。
[原文 4] He asks, "If you think about it, doesn't it strike you that in Russian literature there haven't been so far any real, clear, cheerful descriptions of the sun?" His youthful stories supply this lack: "The sun hung from the sky like the pink tongue of a thirsty dog" ("Lyubka the Cossack"): … (中略)… and "The orange sun is rolling across the sky like a severed head" ("Crossing the River Zbrucz").
[和訳 4] 彼(Babel)は尋ねます。「もしあなたが自身に質問を嘆かれれば直ぐにお気づきになると思いますが? ロシア文学にはこれまで、太陽を描き上げるに、生々しくて、かつ快活な表現は存在しなかったことにハッとされはしませんか?」 彼(Babel)の若々しい物語作品はこの欠陥を埋めるものです。その表現の一例はこれです。「太陽が空から下を臨みます。その姿は喉をからした犬の口から覗くピンク色の舌の様です。」(「コサック兵のリュブカ」)・・・そしてもう一つが「オレンジ色の太陽が天を転がり進みます。斬首された首の様です。」(「ズブリッツ川を渡る」)。
-Seek"by John Updike, The New Yorker, 5 Nov. 2001 issue
5. Study Notes の無償公開
読書対象の Essay は全 13 ページと短いものです。この Essay の文章もそれが批評対象として取り上げた Babel の作品に対抗するがごとく、Kipling が言うところのこれ以上切り捨てる文章・単語はありませんと自信を持って言えるまで切り詰められた文章の典型のようです。何を指して良いとか悪いとかと言っているのか正確に文意を追うのに苦労しましたが、「一旦解るとこのような理解しかありえない」と確信できるという意味で iron-clad されています。当に "authors should have the clearest possible notion of what was to come out of their pens." です。
以下に公開するファイル、2種類はファイル形式の違いだけで内容は同じです。A-5 サイズ用紙に両面印刷すると、ステープラで綴じることで左綴じの冊子になります。