手続きとして不可欠な起訴が証拠集めの遅延によってできないままに、未決囚なる扱いで刑務所に収容されている Yakov に向けた、官憲側の「不規則」な、こそこそとした行動が、一つ、また一つと発生します。時は第一次大戦が始まる以前、日露戦争後の時代です。
1. 恣意的な証拠作りの進行? 今更、容疑者の髪の毛を採取するなんて。 未決囚として刑務所の雑居房に入れられたものの、幾つかの違反行為の咎で Yakov は独房に監禁されます。来る日も来る日も、保安員が一日数回、鉄の扉を開いて状況のチェックに入室してきます。次は何が起こるのかと、その度に恐怖に襲われます。与えられた靴は壊れてしまい素足で過ごしていたもので黴菌により膿を持ち足の先から膝まで腫れ上がりもしました。
[原文 1] During the late autumn Yakov did not see the warden, then one day he appeared in the cell "for purposes of official business." "They've found a fingerprint on Zheniushka's belt buckle so we'd better take yours." A detective appeared with an ink pad and paper and took Yakov's fingerprints. A week later the warden entered the cell with a large pair of scissors. "They found some hairs on the boy's body, and we want to compare them with yours." Yakov uneasily gave him permission to cut his hair. "You cut it," said Warden Grizitskoy. "Cut off six or eight hairs and put them in this envelope." He handed Yakov the scissors and envelope. The fixer snipped off several of his hairs. "How do I know you won't take these hairs and put them on the boy's corpse and then say you found them there in the first place?"[和訳 1」 その年、晩秋の頃しばらくは監守長の姿をみなかったのですが、この日「正式の手続き事務がある」とのことで、ヤーコフの独房に姿を現しました。 「捜査員たちがゼニュィシュカ少年のベルトの止め金に指紋が見つかったのでおまえの指紋を採取する」というのです。 インク盤と紙を手に捜査員が近づきヤーコフの指紋を移し採りました。 一週間すると今度は監守長が大きな挟みを持って独房に踏み込んで来ました。 「捜査員たちがあの児の身体に付着した髪の毛を見つけたので、おまえの髪の毛と比べるのだ」と言うのでした。 ヤーコフは拒否したかったものの仕方なく毛髪採取を受け入れました。 「おまえが自分で採取しろ。6~8本の毛髪を切ってこの封筒に入れなさい。」と監守長のグリジッコフが命じ、ヤーコフに挟みと封筒を手渡しました。 修理屋は「この髪の毛を先生方が持ち帰ってあの児の死体に付着させておいて、それを死体の発見時、即座に発見したのだと主張しないとも限らないね、確かめようがありません。」と漏らしながら、数本の髪の毛を自分で切り取りました。
Lines between line line 36 on page 192 and line 18 on page 193, "The Fixer", a Farrar, Straus & Giroux paperback, issue 2004 DNA fingerprinting なる技術が英国から日本に技術導入された頃、1993 年頃のことですが、双方のコミュニケーションを助ける役割を急遽命じられ、慌てて二重螺旋や塩基配列の話を勉強したものの良く解らず、およそ一年程の期間でしたが苦労した経験を思い出しました。forensic fingerprinting とか paternal / maternal / parental determination なる表現を実社会で使う経験をしたのがこの時でした。
記憶に残っているのが当にこの問題、髪の毛だどか血液痕だとかの採取サンプルが人為的に偽装されていないことの確証のむつかしさでした。不注意からの混同を防ぐだけでも大変な作業なのに、不正な操作の介在を防ぎ、そのような介在が無いことをどうして証明するのかとなると簡単ではないのです。
2. 恣意的な証拠作りの進行? それでなくとも劣悪な食事に致命的ではない毒を混入。「虚偽の自白」を迫るのです。 怒鳴りつける、優しく迫る、殴りつけるに止まりません。食事に毒を混入して苦しませることまでが「虚偽の自白」を強要する手段になるとは驚かされました。
独房において何日も下痢と腹痛に苦しんだ Yakov は、その症状から食事に毒が混入されていると確信します。
[原文 2] "You are poisoning me here," Yakov shouted. "I know of no poison," the warden said sternly. "You're inventing this tale to make us look ridiculous. The doctor reported you had a stomach cold." "It's poison. I can feel it in me. My body is sick and shrunken and my hair is falling out. You're trying to kill me." "To hell with you," said the cross-eyed warden as he left the cell. In a half hour he was back. "It's not my doing," he said. "I never gave such orders. If there's any poisoning done it's on the part of your fellow Jews who are the most notorious well-poisoners of all time. And don't bribe Gronfein to poison or kill Marfa Golov so that she couldn't testify against you in court. Now your Jewish compatriots are trying to poison you out of fear you will confess your true guilt and implicate the whole nation. We just found out that one of the cook's assistants was a disguised Jew and packed him off to the police. He's the one who was poisoning your food." "I don't believe it," said Yakov.[和訳 2] 「あなた方はこの独房にいる私を毒殺しようとしているに違いありません。」とヤーコフは大声を上げました。 「毒物なんて全く知らないことです。」と監守長は断言するように答えました。「そんな話はおまえの空想だ。我々を無法者呼ばわりするものです。医者の報告によると、おまえは腹を冷やしただけだとあったぞ。」 「食べたものは毒物です。食べた本人には感触で解ります。私の身体は変調して縮んでしまい、髪の毛も抜け始めました。あなた方は私を殺しにかかっているに違いありません。」 「くたばってしまえ、おまえなんか。」と言い残して斜視気味の目をした監守長は独房を後にしました。 半時間程が過ぎるとこの監守長は戻ってきて言いました。「毒を入れたのは私の意思ではありません。そんなことを命じたことはありません。もし毒を混入したことが事実ならばどこぞのユダヤ人、おまえと同じユダヤ人の仕業でしかありません。なんといっても井戸に毒を入れるのは、昔からユダヤ人の常とう手段と決まっています。ところでおまえにはグロンファインを買収してマーファ・ゴロフに毒をもったり、殺したりしないように警告しとくぞ。彼女を殺して、裁判の場で彼女がおまえに不利な証言をするのを不能にしようとおまえなら考え兼ねないのだから。今日現在のことだが、おまえと同じ様なユダヤ人たちが、おまえに今回の罪状を白状させまいとして、おまえの食事に毒を混入しているのです。ユダヤ人たちの行動をおまえに白状されるとユダヤ人組織(国)がこの犯罪に巻き込まれることになるのだからな。我々はつい先ほどのことだが料理人たちの手伝いに来ていた連中の中に身分を偽っていたユダヤ人を見つけて警察に引き渡したところだよ。そいつがおまえの食事に毒を盛っていたということだ。」 「そんな話、信じる筈がありません」とヤーコフは応じました。
Lines between line line 7 and line 28 on page 200, "The Fixer", a Farrar, Straus & Giroux paperback, issue 2004
3. 法廷検察官 Grubeshov の知性と行動力も、その根元で狂ってしまうとこうなるとの典型例です。 出世の為には皇帝 Nicholas II の目に留まる功績をあげること。こう思いこんでいるのが Grubeshov です。犯人をでっちあげるとも今回の殺人事件の「犯人」を特定して手柄を上げたいのです。その「犯人」が 30 才のユダヤ人の男とあらば、社会に口伝えで広がる反ユダヤ人感情へ一時しのぎの満足感をプレゼントできることになり、皇帝の目にも留まると信じているようです。こんな策略となると頭脳の無い者には思いつくことすらできません。彼だからこそです。秘密警察組織の検事なる立場を表に出して動き出せば。凡人で成る組織人は従うのです。まして日々の生活に犯罪すれすれの稼ぎを当てている下層民は、見返り次第でもっとあからさまな嘘でも人前で発言します。
[原文 3] "The Tsar?" said Yakov in astonishment. "Does he know about me? How could he think such a thing?" His heart sank heavily. "His Majesty has taken an active interest in this case since he read of Zhenia's murder in the newspapers. He at once sat down at his desk and wrote me in his own hand the following: 'I hope you will spare no pains to unearth and bring to justice the despicable Jewish murderer of that lad.' I quote from memory. His Majesty is a most sensitive person and some of his intuitions are extraordinary. Since then I've kept him informed of the progress of the investigation. It is conducted with his full knowledge and approval." Ah, it's bad luck, the fixer thought. After a while he said, "But why should the Tsar believe what isn't true?" Grubeshov quickly returned to his desk and sat down. "He is convinced, as we all are, by the accumulative evidence conveyed in the testimony of the witnesses." "What witnesses?" "You know very well which witnesses," Grubeshov said impatiently. [和訳 3] 「皇帝ですって?」とヤーコフを驚きの声を漏らしました。「皇帝さまが私のことをご存じだなんて? どうしてそんなお方が私の事を気になさるのですか?」とヤーコフは重い気分になって呟きました。 「皇帝さまは今回の事件に特別の関心をお持ちです。新聞でゼーニアが殺されたことを読まれたのです。彼(皇帝)は自分の机に座り、直ぐにご自身の手で私に手紙をしたためました。次のようであったと記憶しています。『私は貴殿が労を惜しむことなく事実を探し当て、子供殺しのこのおぞましい犯人、ユダヤ人を裁判に掛けられんことを願います。』皇帝さまは感性の鋭いお人であって、生まれながらにして、桁外れの才能の持ち主です。その時以来、私は捜査活動の経緯を皇帝さまに報告しています。つまり、捜査は皇帝の経緯・事態の完全なる把握、承認の下に進められているということです。 あゝ、残念・不運なことだなとヤーコフは思わずにおれません、一息おくと声を出しました。「ところで、皇帝さまは虚偽の事実をそのままに真実と判断されたのでしょうか?」 グルベショフは即座に自分の机に戻って腰を降ろしました。「皇帝さまは確信されています。我々臣下のもの全員がその通りだと信じてもいます。それは目撃した人たちの証言により明らかにされ、この日までに積み上げられてできた証拠に基づくご判断です。 「目撃した人たちの証言とは何の事ですか?」 「そんなこと言うまでもありません。おまえが良く知っている人たちに決まっています。」グルベショフはいらだちを隠せず声を荒げました。
Lines between line line 15 and line 34 on page 221, "The Fixer", a Farrar, Straus & Giroux paperback, issue 2004 この引用文の後にはこの小説の前半に登場した人々、すなわち Yakov と街で偶然出くわしたり、レンガ焼成工場で一時一緒に働いた人々の名前と彼らそれぞれが Grubeshov の手元にもたらした証言なるものが何件も Grubeshov の口から Yakov に伝えられます。読者はそれらに関する本当の話を、小説の前半で読んで知っています。それら事実に加えられた変節の見事さ・おぞましさに驚きながら、虚偽の証言を聞く(読む)ことになります。
4. この小説の背景知識として"Pogroms in Russian Empire" を Wikipedia に学ぶ。 次の引用はWikipediaにある”Pogroms in Russian Empire" と題された記事のほんの一節です。
[原文 4] Pogroms in the Russian Empire were large-scale, targeted, and repeated anti-Jewish rioting that began in the 19th century. Pogroms began to occur after Imperial Russia, which previously had very few Jews, acquired territories with large Jewish populations from the Polish-Lithuanian Commonwealth and the Ottoman Empire from 1772 to 1815. These territories were designated "the Pale of Settlement" by the Imperial Russian government, within which Jews were reluctantly permitted to live. The Pale of Settlement primarily included the territories of Poland, Ukraine, Belarus, Bessarabia (modern Moldova), Lithuania and Crimea. Jews were forbidden from moving to other parts of European Russia (including Finland), unless they converted from Judaism or obtained a university diploma or first guild merchant status. Migration to the Caucasus, Siberia, the Far East or Central Asia was not restricted.[和訳 4] ロシア帝国において発生したポグロムは規模が大きく、攻撃対象が明確な、そして何度も繰り返し引き起こされた反ユダヤ人暴動です。ポグロムの発生は 19 世紀になりロシア帝国が誕生した後のことです。その当時までユダヤ人人口の少なかったロシアが、1772~1815 年の間に、ユダヤ人人口が多かった一帯を「ポーランド・リトアニア共同統治領」並びに「オットマン帝国」から分離し併合したことが原因になりました。ロシア帝国はこれら併合した地域を入植認可地(the Pale of settlement)と呼び、ユダヤ人の入植を消極的ながら許容する地域と定めました。該当する地域には主要なものとしてポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ベッサラビア(現在のモルドバ)、リトアニア、クリミヤの一定地域があります。欧州ロシア(フィンランドを含む)とされる領土内にあっては、これら特定された地域の外にユダヤ人が住み着くことは出来ないとされました。しかし例外規定があって、ユダヤ教から離脱した者、大学卒業の資格保有者、第一級ギルド商人資格者はその限りではないとされていました。また、コーカサス、シベリヤ、極東、中央アジアとされる地方は移住・入植の禁止規定から除外されていました。
from Wikipedia, article "Pogroms in Russian Empire"
5. Study Notes の無償公開 今回の読書対象は Chapter VI, pages 181 - 227 です。この部分に対応する Study Notes を無償公開します。ご自由にご利用ください。