『ロリータ』を読んだ
ロリータ、を、読みました。新潮文庫、若島正訳。
タイトルとか、世間に知られているざっくりとした印象とかから、あまり大手を振って「読みました!」とは言えない類の小説ですが、いろいろと思うところがあったので恥を偲び文を認めます。
そしていつものように予防線。
私は文学を知らず、ナボコフという著名作家のことを何一つ知らないままこの作品を読みました。
1回しか読んでいないし、さらにメインストーリーが気になりすぎて細部をまぁまぁ読み飛ばしてもいます。
さあ、そんな人間の戯言を、これから残すぞ。
大前提のかんちがい
読む前の私は2つ、根本的な誤解をしていました。
1つ目はあらすじに関するもの。
私は『ロリータ』という作品を、純真無垢な少女を何とか閉鎖空間に閉じ込めて自分好みに調教するという性癖のごり押しだと思っていました。
いうなれば光源氏にジーコ〇サッカーを足してウォッカと煮詰めた醜悪に醜悪を重ねた弩級下劣ポルノ作品だと思い込んでいたんですね。(だったらここまで名作扱いされるわけないわな)
それが蓋を開けてみればあらびっくり、そこにあったのは苦悩と悪運の絡み合う退廃ロードムービーだったわけです。こいつぁまっこと失礼いたしました。
この誤解の原因としては、どっかで見かけたアンサイクロペディアンによる当作品への言及だった気が大いにするのですが、果たしてそうだったとして、アンサイクロペディアの記述を信じる時点でリテラシーの敗北を意味するため、どちらにせよ私に救いはありません。
残念。
そして2つ目。それは、この作品が実話だと思っていたことです。
え?
フィクションだったの?
書き出しにさ、あたかも獄中の手記をもとに、作中の表現は、当時の年代・状況を考慮し、原文ママで掲載しています。ってやつ、やってたじゃん。
途中にちょくちょく、陪審員への呼びかけ、してたじゃん。
みなさん、痛ましい事件の犯罪者の独白、お好きでしょう。だからネオ麦茶とか酒鬼薔薇とか鮫島事件とか、そういうのの本、買っちゃうんじゃないんですか。
たしかに本に書いてある著者名と、作中の一人称であるハンバートハンバートってあまりにも一致しないな、とは思いましたけど。でも作品の内容が内容ですし、そういうもんかなって。
巻末を読んで、それで初めて「あ、これフィクションなんだ」と思いました。
少し己の無知さ加減に辟易しましたが、それによってある種常人には不可能な叙述トリックを楽しめたのでどっこいどっこいでしょう。
そう思うことにします。
やってらんねぇよ、じゃねーとさ。
そんな蒙昧野郎によるロリータの感想文、始まります。
あまりにも真っ当すぎる
読了直後に思ったことです。なんなら憤りに近い。
もちろん読了直後なので、こう思ったついさっきまでの私はこれを実話だと信じていたのですが、そもそもなぜ読もうと思ったかといえば「小児性愛者の半生が知りたい」という動機が少なからずあったわけです。
故に冒頭で語られる少年期の忘れがたい体験、全編通してのニンフェット(魅惑的な少女の通称。こういう注釈いる?)に対するH.H.(主人公)の見解、後半で明かされる母親の存在の欠如、そして成長していくロリータへの失意。
それらすべてが、あまりに理性的に、一般に推測される「小児性愛者が小児性愛者になるためのロジック」に沿い過ぎていました。
重ねて申し上げますが、読んでいる最中は本当にあった事件をテーマにした、いいとこ半自伝だと思って読んでいるため、「ああ、やっぱりそうなんだ!」と、従来からやってきた考察の裏付けが得られたぞ、と喜び勇んでページを進めていたわけです。
少女しか愛せなくなるのは、少年時代の残滓を引きずっているから。
少女を愛せるのは、彼女らの都合のいい部分しか見えないから。
偏愛を抱くのは、幼少期に親の愛を十分に受けられなかったから。
これぞまさしく論理です。人に異常を混乱なく伝えるための最短距離です。
しかし、できすぎでもある。これではどうしても、常識の範囲を逸脱しません。
私たちは(とひと括りにして申し訳ありませんが)、全体の傾向として、理解不能なものを恐れども、その境地に至った、あるいは至ってしまった存在に対して、憧憬とも呼べる無責任な感情を抱く場合があります。
それがカリスマと呼ばれる少数達であり、創作キャラクターで人気を博すための要素の一つでもありましょう。
ロリータを読んでいるときの私は、確かに自分のロジックを補強してくれるこの作品に感謝を覚えていましたが、同時に「結局はそうか」という失望もまた感じていました。
そしたら、最後に、大どんでん返し。※私にとってだけ
なんだ。
嘘か。
なら、まあ、そうなんだろうね。
結局、真の異常者の一端には、触れられなかったってことか!
いやはやなんとも、失礼なふるまいです。浅学ゆえの勝手な期待、勝手な失望、による怒り、そして開き直りの諦観。
ですがどれほど自分勝手な感情であろうとも、それは正しく私が生み出した、偽りなき事実でもあります。
正直なところ、この記事を書こうと思った最大の理由はこの傲慢をなんとか外に見せびらかそうとする露出嗜好に他なりません。
私は、激怒した。今日はそれだけ覚えて帰ってください。
真っ当ポインツ
これはまだ小説が実話であると思っていた時点で巡らせていた思索にまつわる文章です。読み終えてその思索は便所に転がるコオロギの折れた触覚ほどの価値もなくなりましたが、このnoteってところはそういう掃きだめのシミを転写していい場所だと伺ったので、お言葉に甘えることにします。
まずハンバート氏の幼少期の思い出について。作中最大のテーマである少女性愛の、その最たるきっかけの一つです。
なぜ成人男性が同世代の女性を愛せなくなるのか。それは幼少期に海馬を痺れさせ大脳皮質を捻じ曲げる、少女との経験があったからだ。ブレインストーミングをするまでもなく出てくるありふれた仮説です。俗にいうイ〇ピオってやつ。
もしかすると精神医療界隈では既に研究され、実際に裏付けも取れている事実なのかもしれませんが、少なくともそれを知らぬような人間にも容易に想像できる説であることは確かでしょう。
それゆえ読者になじみやすく、一種の免罪符ともなる分かりやすい理由付けと言えますね。
いや、なじみ過ぎるだろ。わかりやす過ぎるだろ。
ただまぁ、仕方ない。そういう過去が実際にあったんだもんね。しかたないよ。
次に主人公のナルシシズムについてです。
作中、ハンブルク氏は何度も自分の容姿に言及します。長身超絶ハンサムヨーロピアンな彼は、いくつかの場面をその美貌をもってして潜り抜けていき、最後の最後で自らの醜悪さ(それは必ずしも外見的な意味ではない)に気が付きますが、おおむね常に自己評価カンストを維持します。
そしてそれと並行して、あるいは連動してか、あまりメンタルが強くありません。そもそも体が頑強な方ではありませんし、頻繁に何かしらの薬を飲んでいます。いや、これは物語後半の記憶が先導しているだけのイメージかもしれませんが。それはともかく。
いかれた性癖の持ち主は、そこ以外の精神面もいかれてて然るべき。
説得力はありますが、やはりこれもどこかステレオタイプで、共通認識に寄せているようにも見えます。
でもまぁ、異常者だし。人の精神なんて各所で連鎖するんだから、さもありなんってもんよ。
その次は、対象の範囲。
愛することができるのは、一定の骨格の、一定のホルモン分泌を続けている、一定年齢範囲内のみには、決して、限りはしないという点です。
ロリコンといえば、ひたすら少女、日がな一日少女、あくまで少女、いや飽きぬと己を貫徹するのかと思いきや、決してそうではない。成人女性も相手するし、なんなら、あどけなささえ残っていれば、別にそれでもかまわない。
主人公の対象は明確な定義づけがされるようなものでもありません。作中では対象を「ニンフェット」と呼んで区別しているようですが、あれは単に年齢相応の純真さと年齢不相応の妖艶さを持ち合わせている対象をそう呼んでいるにすぎず、本人が自覚していたかははっきりと覚えていませんが、ざっくりいうなら「不確かさ」こそが魅力の根源だ、というだけです。
当然不確かさを明確に定義できるわけがありませんから、ハンバート・ハンバートは確固たる一線を持っているようですが、到底持っているとは言えないでしょう。
実際気に入った成人(かはさておき、少なくとも少女ではない)の娼婦とも寝ますし、同棲終盤ではロリータの母親に大分絆されている様子が見られます。
機械的ではなく、曖昧な人間としての、「趣向」に収まる異常。
なるほどたしかに、人間臭いです。
いくらやべー趣味してたって、人間は人間だからな。
まだまだあります。こんなに書くつもりはなかったんですけど。
それはハミーが少女を愛する上で育児を考えていないことです。
ニンフェットという概念は、ただ魅力的な少女に捧げる形容というだけでなく、ハンバートの都合の良い解釈も含意しています。
中盤ローの母が死に、(あ、ネタバレありです。古典とも呼ばれてますし、さすがにもう時効でしょう)ハミーとの楽しいランデブーが始まるわけですが、そこで初めてハンバートはハンバート夫人がドロシーに対して行っていたしつけ、と呼ぶにはいくらか手厳しいそれの理由を知ります。
どっかのTogetterかなんかでまとめられていましたが、育児に参加せず見る子供の姿というのは、非常に愛らしく、育児ノイローゼに罹る人間が信じられないほどの天使に見えるそうです。
要するに、育児に関係ないところの子供はかわいさしか見えないってことですね。それはハンバートが窓の外で遊ぶ魔性の妖精たちを眺めていたのとまったく同じ状況です。
「いい子」なんてのは幻想です。みな心の奥底に浅ましさを鈍く光らせた、獣なんだぜ……。
次は運命の都合のよさ。
ロリータの母の死は、あまりにも劇的でした。
ハンバート氏が懇切丁寧に書き残し、隠蔽していたつもりの居候連れ子観察♡(タッチもあるよ)日記は、あるとき白日の下へと晒されます。
それを目の当たりにしてしまったドロレス母は怒髪冠を衝く勢いでH・Hに詰め寄り、各種お世話になった方面へ真実と危険を告げる手紙を送ろうとポストへ駆け出してしまったが運の尽き、哀れ貧弱なペデストリアンは鉄の馬によって物言わぬ肉塊に変貌してしまったのであります。
正直ここが一番のクライマックスだと思います。あなやハンバートお縄か、と思った瞬間に九死に一生を得るわけですからね(ハンバート夫人は得られなかったようですが)。
おいおい、事実は小説よりも奇なりっていうけど。読んでいて、創作かよ、って思いました。
創作でした。
小説でした。
はい。
しかし読んでいる最中は、たしかにこういう幸運がないと大犯罪にまで発展しないわけですから、逆説的に信憑性があるな、なんて思ってしまったのです。
悔しい。
あぁ、あと、そうそう、母の欠如もありますね。
先に言っておくと私は親の愛子供に影響及ぼし過ぎ教の信者なんですが、この作品の主人公も例に漏れず親の愛を十分に受けられていません。
幼いころに母を亡くし、母の愛情という物とは無縁の人生を送っていたことが後半に明かされます。
不肖私は愛を伝えたいだとか語れる立場にはいないのですが、面白半分で茶化すのは得意です。よってこのまま続けさせていただきます。
男の恋愛というのは、直接的にしろ遠回しにしろ「母親像」を求めるという通説があります。
いま私のいる部屋は扉兼本棚の四方背表紙部屋ではないし、手元にワインもないしオックスフォード大学の言うことも聞いていないので説得力は皆無な訳ですが、どうにもそういう風潮があるらしい。35億総マザコン社会です。あ、もう40億か。
火のない所に煙は立たぬ。この作品もそんな共通認識のもと書かれたかは不明ですが、歪んだ人間の一要因としての親不足は確かに存在するかと思います。
周到ですねぇ、ナボコフさんとやらは。信頼できない語り手の代表作を執筆されているそうですが、対して著者本人は理論づけがしっかりなされた信頼できる作者、ってね。
あっぱれ。
ロリータが世間擦れしていく点もリアリティがありますね。
ハンバードは少女たちの神秘さ、神聖さを貴んでいたことはもう周知の事実かと思われますが、その輝きは永遠たりえません。
よその子とゴーヤは育つのが早いと、少し前の連続テレビ小説で言っていた気がしますが、正にその通りで、一体どこで覚えてきたんだか分からないような低俗極まった言動は、我々の願望に反比例した高速度で若者のなりそこないへと浸透していきます。
それを恐れていたハンバートはできるだけドリーを自らの近くに留めようとしますが、流石に肉親に実子の制御権で勝てようはずもなく、むしろ既に亡き夫との唯一の宝物であるはずのドロレスを遠ざけようとします。なぜってハンバートがイケメンだから。その上彼の意識はどういうことだか娘へ向いている。こりゃあ一人娘はどっかに流刑して自立してもらうしかありません。そしてその計画は部分的に成功します。
ボーイスカウトのガール版のような催しに可愛いロリータを送り込むことに成功したハンバート夫人は、これからしっぽりイケメンのヒモを調理してやろうと勇むわけですが、愛し彼は上の空。
そりゃそうです。ロリータが私の知らないどこかで意/地\汚/い\同/性\愛/者(当時の状況を反映しそのままの表現でお届けします)に手籠めにでもされていたら堪りません。脳破壊どころの騒ぎではないのです。
実際、母の死でいくばくか早まった敵地潜伏でローは数段階段を駆け上り、(ある観点では駆け下り、)そこにいくらかの失望を繊細かつ大胆なハンバートは抱くわけですが、まだ致命的ではありませんでした。
しかしそれはそれとしてハーバートは将来への不安を抱くわけです。もともと少女性はつかの間の魔法。どれだけの好機を掴んでも、掴み続けるうちに掌の中で脈動は弱弱しくなりいずれ朽ち果ててしまうことは、ずっと前からハンバートにもわかっていました。
果たしてそうなったとき、彼はロリータを愛せるのか。
私の願望としては愛さないで欲しかったです。
すみません、題がずれてしまいました。戻します。
本来ハンバートは自らの領域の中だけで育む籠の鳥を理想としていた(ように私には思える)のですが、強制イベントによりそれは叶いませんでした。
しかしどうでしょうか。個人の支配下に置き、接触を制限し、二人だけの世界しか知らぬ者。それは真の人間と呼べるのでしょうか。
ハンバートにもその葛藤がおそらくあったのだろうと推測します。あくまでも対人とは己の想像を超えるからこそ意義があるのであって、自分の期待通りの反応のみが返ってくるならば、それはもう自分との対話に他なりません。
まぁ、私はここをうまいことやって共依存に持っていく話が好きなんですけどね。アニメ1話しか見ていないんですが、ハッピーシュガーデイズってそういうことだと思います。ただ私にはあの作品、世界の都合が良すぎるなと我に返ってしまって楽しめませんでした。
このセクションは脱線が過ぎますね。この程度にしておきましょう。
結局女は女であるというのも、この作品の軸の一つのように思えます。
少女性愛者は女性恐怖症でもあるという話は有名です。
ロリコンが先天的か後天的か、なんかその辺に関わると面倒そうなのであまり突っ込みませんが、成人女性には相手にされない(勝てない)から、物理的、知識的、金銭的に上回ることができる少女に逃避する、というロジックは理解できます。
相手が幼ければ制御できそうだという希望。しかし、女は生まれながらに女。弱者男性の希望は幻想に過ぎず、彼らは打ち砕かれていく。
ここで一つ断っておきたいのは「H・Hは決して弱者男性(俗)ではない」という点です。自賛している通り見てくれは良いようですし、教養もある。なんなら欲望に塗れた少女との二人旅(これあダブルミーニングです)を数年続けられる程度には資産も収入のあてもある。しかし少女を愛してしまった。
これは作者の作為的なずらしな気もしますが、たしかに面白くないですもんね、鬱屈した男のフヒヒ獄中記は。仕方ないでしょう。
そして実際児童の支配ですが、幼少期は可能です。金銭面、身体面では大人に敵いようがありませんからね。
ですがそれはあくまでも目に見え、手で触れられる肉体の領域に過ぎません。何人も他者の心を支配掌握することなんて、できないんですから。
たまにはかっこいいこと言わせてください。
ところがその仮初の征圧も、いつか限界が来ます。そうなったときの対策を、あるいはそうなることさえも考慮していなかったのがハンバートの稚拙さといえましょう。
彼は己による敗北を喫したのです。
そろそろ最後にしましょう。
この作品の接地点は「女の強さ」にあります。
本編最後、ハンバート・ハンバートは久方ぶりにロリータと、ドロレスと邂逅します。
ここに来るまでに散々に疲弊し、薬物中毒のケも一層深まったハンバートとは対照的に、ドロレスは今こそ人生の絶頂と言わんばかりの日常を謳歌していました。
決して恵まれなかったばかりの人生ではなく、一度は自らの悲願を達した男よりも、少女時代を異常性癖持ちの男やもめに掻き乱された少女の方が幸せになっている。これは明らかな対比です。
『ロリータ』を推察と偏見だけで語ってみれば、もしかすると男が下卑た笑いを浮かべながらひたすら少女が不幸になる話というプロットが過半になるかもしれません。少なくとも私はそう思っていましたし。
ところがこれはむしろ逆で、少女礼賛、というより女性礼賛を前面に押し出す作風すら読みとることができます。
昨今「ロリ」という単語を取り巻く風潮のうち、比較的社会派に近い部分で語られる文脈とは相対するメッセージ。なんとも皮肉なものですね。
好きなとこ
なんかこの作品について気に入らなかったところ、しかも自分の誤解由来という一番悪質な角度から絡み続けている気がしますが、とても面白かったです。
なんと言っても文体が好きですね。あいにく私は英語盲なので翻訳版をもとにしか語れないのが心苦しいですが、原作者の情熱をひとけらとて逃さず、何ならば増幅してやろうという努力、偏執、異常なまでの、これは愛なのでしょうね。読んでいるとき、ずっと圧倒されている感触を受けました。注釈は山もり、所々に原文(それも英語でなくロシア語)のカタカナ読みは当然の顔をして、一番驚いたのは錯乱を表現するときの偽万葉仮名。やりたい放題です。
さらに原作通りになるようおそらく趣向を凝らしたのであろう、飽和しかねないユーモア。正直この翻訳版、すごすぎるんでないの。こんなことを軽率に発言するのはよくないことなのでしょうが、この作品に関しては原作者と翻訳者の共作といっても差し支えないのではないでしょうか。
本の翻訳というのは、すべてが全て「この本を翻訳したい!」という熱意から行われるわけではありません。ですがこれに関しては、翻訳者が誰よりもこの作品を愛していることがひしひしと伝わります。思想としては宣教師といった方が差し支えなさそうです。
もちろん、翻訳者ばかりを讃えるというのも礼を失するでしょうから本編の内容にも触れます。
文庫のカバー、そして本編後の解説にもありますが、この作品の欲張り加減は目を見張るものがありました。言葉を借りれば、「中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェル」です。私はここにサスペンスとかモキュメンタリーとかも入れていいような気がしますが、とにかく要素がふんだんに盛り込まれた一冊です。
そしてやはり個人的にはハンバートの秘密が暴かれてからのハンバート夫人ことシャーロットの死が好きですね。こう言ってしまうと犯罪者予備軍として扱われてしまいそうで少々不安ですが、感情移入と自己投影の区別もつかない白痴は私の周囲にいないと信じて続けると、ハンバートに大分感情移入していた私としては、この危機をどう乗り越えようかという息の詰まる極限状態における、シャーロットの死というデタントがあまりにもきれいで強引でどうしようもなく感動させられてしまいました。
後半の狂気の描写もよかったです。統合失調症の見る景色が垣間見れるようで、さらに薬物との合わせ技なども非常に面白い。
作中を通してハンバートが「外見・行動的に理想を叶える少女」に向けた愛情は成功に至ったのに、最後の最後で「ドロレス・ヘイズ」その人を好きになり、それは成就しないという構造も示唆に富みます。
考えてみれば、現在少女(趣味)全般のことを指している「ロリータ」という単語が、ただ一人の少女を、ひいては女性を指す呼称だったのは面白かったですね。でもそういうもんです。ショタコンのショタだって正太郎ですから。
それに、ロシア人作家の割には登場人物も法外な人数ではありませんし、情報量と熱意に気圧されて、読み流すようにしてさえも数ページ読むたびに小休止を挟むような読み方をしてもアウトラインが分かる程度にはわかりやすい作品です。ちゃんと読んだ人がこの記事を読んだら「全然読めてねぇじゃねぇか」って思われるかもしれませんけど。
やっぱり素直に良かったと言えないのが私の悪癖ですね。
とても面白かったです。
はい。
まとめに入りましょう。
真っ当にならないでくれ
長々と書いて、いやほんと、ここまで書くつもりはなかったんですが、書いてしまったものは仕方がない。
んん。
長々と書いて結局、私が言いたいことは、これだけです。
真っ当にならないでくれ。
これが仮に実話であれば、私は甘んじて受け入れたでしょう。変な人も、案外普通の人なのね、と高を括れたことでしょう。
しかしこれはフィクションなのです。類似の犯罪を犯していない潔白者が、推測で練り上げた物語なのですよ。
たしかに、理解の外側、あまりに外れた遠くへボールを投げても、返してくれる人は少ないでしょう。それでも、これでは、あまりに理性的過ぎる。理解でき過ぎる。
少女性愛の四文字に隠れていますが、この作品は本能と欲望を軸足にした野生ではなく、きわめて理性的なコンテキストの上に成り立っています。
全ての事象には納得できる理由がある。因果の宗教は根強いものです。因果応報という言葉は仏教由来なれど、この考えはどうにも西洋に強く感じる気がします。偏見ですけどね。100%の偏見です。変なところでからまれたくないので何度も言います。偏見です。
ただ、別に、すべてに理論的な理由がなくたっていいじゃないですか。
もちろんこれが実話であれば、いや実話を願っていると被害者の人格を否定していると受け取られかねないな。表現を変えます。
もちろんこの内心の吐露が真実であれば、何事もなく受け入れるんですがね。
賢い人が犯罪者エミュレートをして、その結果真っ当な犯罪者が生まれるのは道理ですし、仕方ないんですがね。
けれど、けれどね。やはり私はナチュラルボーンキ〇ガイが見たいのです。前もこんなこと書いた気がするな。
いくら中二病と呼ばれようと、マジックテープの財布を使ってそうと言われようとも、そういう理解不能があって欲しいと、願うことを止められないわけです。
ただこれこそが、私の好きな類の作品に私が出会えない理由であるとも思います。
魅力のある悪がいる。これは有名・人気作品ではさして珍しいことではありません。そしてそれが理知的であれば、なお私の食指が動くってもんです。
でもそういう私好みの導入を持つ作品の上で、結局やはり誰の理解も届かぬ狂人だったのだ、という複雑な条件付き確率は比較的低くなること請け合いです。どうやら私は理屈っぽい作品が好きなようなので。
だから、
せめて。
実話、だったらなぁ。
あーあ。
実話じゃなかったのか。
実話、だったらなぁ。
よかったのになぁ。
※この記事は特定の犯罪行為を肯定、または助長する意図は一切含んでいません。予めご了承ください。
最後の文章に予めって書くなよ。って、思いますよね。
でもみんな見出し読んでるでしょ。多分。
だから大丈夫。
本当に?
※この記事は特定の犯罪行為を肯定、または助長する意図は一切含んでいません。予めご了承ください。
ダメ押しでもっかい書いときました。
ここはどこだ