ピカソの教訓
この記事を読んであなたが得られるかも知れない利益:ピカソの箴言の意味。教えることの意味。
かの天才ピカソは、こういったそうです。
「絶対に繰り返さないという条件で、すべてをなさねばならぬ」。
つまり、それは
彼が最も避けたいと思っているのは同じことを反復することである。
(「天才の勉強術」 木原武一P157より 新潮社)
ということなのだそうです。
僕は天才とは対極ですが、彼の気持ちがよくわかるのです。
教えるのがイヤだ
もう、教えることが嫌になりました。
おんなじことを教えることが。
同じことを繰り返すことが、苦痛です。
でも、教師ってのは同じことを繰り返すことが仕事ですよね。
同じことを繰り返すことが、物事に上達する道なのですが、
飽きてきただけなのかもしれない。
そして、もう一つ、同じことを反復する以上に、人と同じことを教えるのが苦痛なのです。
自分だけの真理だとか、誰にもないオリジナリティとか、そういうものなら、情熱を持って教えられます。
しかし、それがない。
結局僕が教えてきたのは、アメリカで習ったことと、MBAの教科書の焼き直し、というか「アメリカの受け売り」にすぎません。
それでも、昔は得意になって教えてました。
しかし、ある時から「受け売り」にすごく苦痛を感じるようになってきたのです。
10年前、ある企業で、「英文ライティング講座」を頼まれてやったのですが、どうもいけません。
なぜならば、僕のやっていたことは、誰かに教わったそのものを教えているに過ぎなかったからです。まさに受け売り、です。
その講座の評判はよく、主催者からどうしても次もやってもらいたいと脅迫めいたお願いもされたのですが、断りました。
僕が受け売りに、耐えられなかったからです。高い報酬をもらってもヤなものはヤ、歳を取るとこういうワガママが出てくるのもあるかもです。
要するに、
自分のオリジナル、人と違う、自分独自のスタイル、そしてそれに自身と情熱を持っていて、それを他者と分かち合うことに無上の喜びを感じる、そういう授業じゃないとヤダ、その気持は年々強くなっていく一方です。
それでも授業でプロレスをやったり、私語でもなんでも人に迷惑をかけなければなんでもOKにしたりして、非常識の大切さは教えているつもりなんですが、結局、アメリカの受け売り、です。
ピカソはこう言いました。
「画家は絶対に人びとの期待するものを描いてはいけない。画家にとっての最悪の敵はスタイルなのだ」。
この言葉こそ、学問に対しても投げかけるべき言葉なのだと思っています。
自分のやっているのは、学生にスタイルを押し付けているだけに過ぎません。学生を小さな枠に閉じ込め、可能性を奪ってるだけではないのか。
じゃあ、お前、大学で教えてるもやめたら?
そうなんですけれども、食っていくために・・・
情けないやつだなあ。
そのとおり。
しかし、教えてよかったのかな、と思うような例外もあります。
それは受けてる方が、「すごくいい」と言ってきた時、です。
めったにありませんが(笑)
ゼミの授業で「俺流コミュニケーション」っていうのをやっていたことがあり、ある時O君が「先生のおかげで、俺すごく変わりました。コミュニケーションにすごく自信がついて、そのおかげで大企業に内定もらいました」と言ってきたんです。
それをきっかけに、僕の受け売りカリキュラムを改善し、今は少しオリジナル色を帯びるようになってきました。
英文ライティングも、自分のオリジナルを今作っている最中です。
まあ、要するに受け売りが嫌なら、本当に自分の独自のカリキュラムを創れって話ですよね。
教えること自体が生徒の可能性を奪っているのではないか、という疑問
さて、実は教えるのが嫌になってきた、もう一つの理由があるのです。
それは僕の教え方が間違っているかも知れないので、それはお断りしておきます。
どういうことかというと、例えば経営学でも、経済学でも、これはこう、あれはああ、という形で教えるじゃないですか。
つまり、決めつけですよ。経済とは何か、経済学とは何か、インフレとは何か、という具合に決めつけますよね。そうしないと講義になりませんよね。
はたしてそれでいいのか、っていうことですよ。
先生、というか、その教えている学問そのものがそれでいいのか、っていうことですよ。
今の教員は大学教員も含めて、教科書通りのことを一応教えているわけじゃないですか。そして、教えたことをきちんとコピーした解答に点を与えて、AとかBとかの評価をしているだけです。
もちろん、語学などのジャンルはこれに含まれませんが、いわゆる社会科学系はこの批判が当てはまると思うのです。
そこを上手く教えるのが教師の腕じゃないかと言われればそれまでですが、僕も戦略とは、とか、マーケティングとか、とかありきたりにしか教えられない僕は、迷いの中にいます。
本当にその学問の本質を極めればそんなことで悩まないのかも知れませんが。
僕レベルでは、ようするに、常識的な知識しか与えられない、しかし、そんなものはインターネットで探せるような凡庸な知に過ぎないものです。
教えるのは正しい態度だけでいい
学生に、教えるべきは教科書の定義ではなく、自分で調べ、考えるという態度なのです。
それなのに、先生の言うことを鵜呑みにして、教科書の言うことを覚えろ、という態度を教えているのが、僕なのです。
教えるほどに、学生はバカになっていくのではないか。その罪悪感が、「教えるのがヤダ」につながっています。
まあ、学生に「学問ってのは深いから、俺が教えられるのは教科書にある常識程度だ、キミたちはそれを批判して、自分の理論を創り出せ。俺を超えて行け」、みたいなかっこいいことを言えばいいんですかね。
まあ後期からもコロナでオンラインだから、そんなこと叫んでもなかなか通じないというのはあるけれど。
ああ、おバカな話をしてしまった。
お付き合い頂き、感謝です。
それではまた明日。
野呂 一郎