おひさ〜 (3/2)
健全なる少年少女、そして紳士淑女たる大人たちよ!
わたしが、かの、「のり子」である!
今日わたしは、「文字ラジオ」を、放送することにする。
お久しぶりです。
数日間、noteを投稿しないどころか、読めもしませんでした。と言うのは、ちょっと鬱なエブリディを過ごしていて、わりかしすぐに治ったのですが、昨日まで何も読めも書けもしませんでした。
昨日の夜、ずいぶん前に書き終わっていた「胃ネズミ」の誤字脱字チェックと文章の手直しだけして投稿することができ、そのおかげでか今は完全に文章が書けるようになって。ええ。
いやはや、人生は楽しいもんですな。
山あり谷あり。経験あり。
のり子もすっかりおじいさんになってきました。
何か話したいことが色々あったのですが、忘れてしまいました。
そうそう、最近気になっていること。と、それに近い話。
気になっているのは、視点についてです。
現在『クァシンとアイの冒険』を次々書いていますが、近頃に限っては視点を変えるのがブームになっているようです。
視点は基本、固定です。それは小説教室とかで習うことなのじゃないでしょうか。小説教室は行ったことないですが、少なくとも学校では習った記憶があります。
視点の固定というのはこうです。
「主人公Aは朝、目を覚ました」と言う一文で始まったとき、視点(カメラ)はAに向いていますから、その後は、
「Aは起き上がって、朝食を食べた」「夕方になってAは公園へ寄り道した」
このように、基本的に物語が終わるまでAから目を離さない。
ちょっとした小説のルールみたいなものですね。
章を変えることで、視点を変えるという方法もあるのですが。
僕の場合、この視点を変えるのにハマっています。
つまり「主人公Aは朝、目を覚ました」と言う一文で始まり、「Aは起き上がって母に挨拶した」「母は買い物に行った。そこで懐かしい友人Bにあった」「友人Bはこれから旅行に行くのだ。下着を買うのを忘れてはいけない」「友人Bが家に帰ると——」
こんな感じ。視点が急に「A」から「母」に変わって、それから「A」のことはほったらかし。今度は「母」を追っかける。その「母」もやがてほったらかし。
こういう物語作りが楽しくなってきました。
……年頃ですかね?
それに近い話というのもありまして。
それは「人称」です。
小説には「人称」という概念があります。
——わたしは〜。
これは一人称です。
——Aは〜。
これが三人称。
村上春樹は基本一人称で、東野圭吾は基本三人称です。
すみません、東野圭吾は二、三冊しか読んだことがないので、イメージです。
これも、最初に決めたら固定です。文章の中に一人称と三人称がごっちゃになっていたら、ややこしくてなりません。
けれど、これをごっちゃにするのも好きです。
いかに違和感なく、一人称の中に三人称を入れるか。
あるいは、あえて違和感を出すために、入れるとか。
文章において一番重要なのは違和感だと思っているのです。
これは僕が文章を好きになった時から変わらない心情です。いい文章というのは「違和感が」いい文章なのです。
いまは昔ほどこの違和感にこだわっていませんが、昔は違和感命でしたから、接続詞にうっとりしたり、言葉の意味をスライドさせたりしてました。
「まる子とアルフ」とか「夢の少女~いつか貝か魚にくわれるその日まで〜」とかに探せばあるでしょう。
「夢の少女」をちょっと探してきます。
・・・5 minutes later ・・・
ありましたよ。第一話から抜き取ります。
例えば。
みたいな言葉選びもそうです。
足音を消して歩くことが上達した。でいいけれど「術」をつける。あるいは語尾の違和感。
のり子が違和感系でも特に好きなのは言葉の繋ぎ方に違和感を持たせること。
まさにこういうやつで。
「ので」や「だから」というのは、格好の標的なわけであるます。
言葉の意味をスライドさせるというのは、
こういうのです。〈普通〉に行けると書くのが一般的なところを〈普段〉とするのは意味の上では通りますが、少し横にずれている。みたいな。こういうのを読んだ時、ゾクゾクっとします。
noteを書くようになって良かった点は文章を書く力がついたことですが、悪くなった点もありまして、それが違和感力が抑えらてきたことです。
読みやすい文章、万人が目を通すことを意識するとつい一通りの書き方をしてしまう。だから最近小説ばかり書くようになったのかもしれないです。小説だと、わりかし勝手なことをしやすい。
そういえば、ちょっと触れたい時事ネタもありまして。
話は変わりますが、——
少し前、とあるプローゲーマーの女性が「身長170以下の男には人権がない」という発言をして炎上しましたが、これが炎上することはとても面白いことだと思うのです。
なぜ面白いかというと、この発言は「フェミニズム炎上」の裏返しな気がするからです。
河合隼雄という尊敬する心理学の先生がいるのですが(もう既にお亡くなりです)、河合先生は日本は母権的なところが大いにある、というんですね。
母権的とは全体主義的ということです。つまり社会の価値観に女性性が強く出ているということ。
反対に西洋なんかは完全に父権主義的で、これは個人主義なわけです。
父権主義は男性性が強い。
男性性というのは切り分ける意識で、個人主義ですから、「自分が」どうするか。「自分が」何を思うかが重要です。
この世界観なら議論をすることで、各々の意見をぶつけ合うことができ、それによって話が進みます。
しかし母権主義の強い日本では、全体主義的なところがあり、「みんなが」どうするか。を意識する。
この世界観では議論で物事が進むことはなく、合意によって話が進む。だから日本は有事の際、責任者が誰かわからない。そもそもが、みんなで空気を読み合って、なあなあで進んできたからです。みんな自分の意見でなく、周囲の空気感で決めるから、自分が責任者だと思っている人がいないのです。
切り分ける男性性の反対が、統合する女性性で、物事を包み込んで判断しようとする。
こういう理屈で、女性は群れることで生き(学校などでもすぐグループを作りたがりますよね)、さらにギスギスする。
対する男性は、群れることにストレスはないのですが、一対一の対面になるとギスギスすることがある。男性には個人主義の意識が強い。だからどちらが上か、下かでギスギスするんです。
これを考えてみますと、「女性差別」やら「フェミニズム」運動はいつも
「女性が」が主語になっています。
「女性が——押し込められている」
「女性に——権利がない」
「女性が——性的なものとして消費されている」
男にこんな発想は生まれないんです。
「男って〇〇よね〜」という発言を聞いても、自分は別だと思ってますから。そこは個人主義的、男性性なんです。「自分」と「男性という枠組み」を同一視しない。
「自分」=「女性」である女性的な考え方と違います。
でもだからこそ、個人のプライドを傷つけられることには耐えられません。
「男ってしょうもない」にはヘラヘラできても、
「あなたって、つまらないね」には耐えられない。
そうです。
「身長170以下の男には人権がない」は、個人に矢印が向かっているのです。
身長が170以下の「自分」のプライドに刺さるのです。
「もし、男には人権がないよね〜」だと、それほど炎上しなかったのじゃないかな。これ言われても僕はなんとも思いませんもん。
なので、男性差別というのは、心理学の理屈的には問題になりにくい。
男性を差別する発言をしても、男性はそれを自分だと思いませんから。
しかし、個人的なプライドを傷つける発言には気をつけるべきです。
そう感じた事件ですね。
いつも音楽をかけていますが、今回はすごいですよ〜〜
WING vs DROPICAL | I Want It | #bbu22 Top 16
ビートボックスです。
大好きなんです。で、この動画はWINGって人です。聞けば誰でもわかると思うんですが、音の質と、リズム感が世界でぶっちぎっていい印象。よくコメント欄でも言われますが、スウィング感あるんですよ。ウィングだけにね。
ちなみに、音の質、ビートボックスは口で音を鳴らすのですが、単純なバスドラムとかスネアとかでも、上手い人がやるととても綺麗な音になりますが、そうでない人(のり子)とかがやりますと、輪郭のはっきりしない、ぼやけた音と言いますか、聞き心地のよくない音になりがちです。それにピッチも安定しないし、毎回ちょっと違う音が出てしまうものです。
が、世界レベルはやっぱりすごいなと。
この動画は特に、音も映像もおしゃれで、曲の構成もうまい!
ここまで書いて、ビートボックスを見るためにいろんな要素があることが了解されるでしょうが、この動画はそれぞれに満点レベルでm#rrrrhv&mav:,
と言葉を失うほど。
ちなみに、これはbbu22という、YouTube上の大会な訳でありまして、「SXIN」と「Chezame」という二つのチャンネルで、これから続々とあげられますので注目です。
まだ最初の動画が2本上がったばかりです。
気になった方は是非。
さて、話は戻りますが(どこに?)
小説の話です。(え、めっちゃ戻るじゃん)
童話っていいなーって最近思った、という話です。
『クァシンとアイの冒険』が童話として認められるかはさておき、のり子としては童話のつもりで書いているのですが、童話の可能性の幅広さに驚いています。
小説も幅は広いのです。ですが、小説は「何をしてもいい。自由だ」と最初っから言われてるわけです。
作家では円城塔さんとか、ボルヘスとか、星新一とか筒井康隆とか、小説でいろんなことをしていますが、それを読むと「ほー、なるほどね、おもしろい」って感じで、
何が言いたいかと言いますと、小説の自由性を想像してほしいのです。
真っ白で無限な空間があるとします。壁も天井もない、ただ白い床だけがどこまでも広がっている空間です。ここに、何を置いてもいいと言われます。
これが小説です。
どこに、何を置いてもいい。
自由です。
ですが、反面、どこに何を置いても「そういうもの」として見てしまい、受け入れられてしまうんですね。
対する童話はどうでしょうか。
童話は「童話」だというだけで、文体と雰囲気が予定されます。
つまり構造は出来上がっているわけです。
これは例えるなら、
館が出来上がっています。そこに連れて行かれ、何を置いてもいいと言われる。
つまり、無限の白い空間に、ブルドーザーを置いても「ブルドーザーだ」となるだけですが、
館の部屋の中にブルドーザーを置くと、いやでも驚くでしょう。「なんだ、このブルドーザーは!!」
庭にキリンを置くだけで驚きます。
そういう意味での幅の広さです。
可能性が見えるんです。炭治郎にとっての隙の糸が見えるみたいに。
だから先日あげました「胃ネズミ」という割と発想一つの作品でも、童話形式にしてしまえばそれなりに驚く作品になる。
自論です。童話ってそういう意味ではずるいです。
「胃ネズミ」にも、視点の交代という最近流行りの手法は取り入れたものの、もしあれが童話でなく、小説だと陳腐な作品になっていると思うんです。『クァシンとアイ』はテーマとしては童話的実験小説、だったのですが、この童話的をつけたのは優断だったと思います。
ただこれが童話として認められるかは、別の問題。
まだ話したいことは二つあるのですが、明日に回しますね。
明日は仏教の話を少しします。
ではでは。