noteコメントの善と悪~善(2)言葉の範囲について深く考えられる。
■コメントで出合う気づき
少し前の私のnoteで、
「このまま死ぬまで誰に対しても、
本当の意味で心を開かないまま
生きていくのかしら?」という
小泉今日子さんの言葉について書いたとき、
合計11名の方からコメントをいただいた。
寄せられたコメントに
「心を開く」という表現に関わる内容が
多くあって、
返事を返していくうちに
この表現が決して一つの定義に収まらない
ことに気づいたのだ。
以下は、皆さんのコメントから、
「心を開く」の定義と関わると
思った部分をピップアップして列挙した。
ちゃんと「心を開くとはどんな意味ですか?」
と訊いた訳ではないので、
あくまで言葉の範囲について考えさせられた
ケーススタディとして。
※勝手にピックアップしておきながら、
ですが、皆さん盛んに投稿されている方々ばかり
なのでリンクを張っておきます(コメント到着順)。
紅茶と蜂蜜さん
「私からすると、小泉今日子さんは仕事を通じて自分を開示している、あるいは周囲に受け入れられている存在だと思うのに、そんな彼女にも深い孤独があるのですね。」
生糸さん
「一つや2つ、誰にも言えない、見せることの出来ない何かを持っていると思う。全て曝け出すと、間違いなく遠浅の海のようにひいていかれる(私の場合です)。」
sar──さん
「心を開いてみて、後から言わなきゃ良かったな…というシーンもあるので、どっちがいいとか言えないなあと思っています。」
くなんくなんさん
「話をしないで、ずっと黙っていても一緒にいられるとか、長いこと会わなくても会えばすぐに昨日会ったように話せるとか、そういうこと。」
Yuki Satohさん
「わたしのまわりの人はわたしがnote書いてるなんて知らないし、誰を推して、どんなことをパソコンでやっているかなんて誰もしりません。そういう意味では誰にも心開いてないです。でも、いいです、それで。ネットで、心はダダ漏れに開きっぱなしだから。」
花留さん
「わたしは、自分にだけは「心を開く」ことができれば、それで上等!です。自分には素直になれる。自分には嘘をつかない。他人と話をする、noteを書く。対象があると、その対象を意識してしまう。その段階で、もう心を開いているのか?自分を「こう見て欲しい」という思いが、本当の意味での「心を開く」から遠のかせる気がしました。」
Ma-hi-roさん
「『心を開く』とは、相手に『本当の自分』を見せることでしょうか?
でも皆、『本当の自分』にフィルターを掛けながら(お互い役を演じて)折り合いをつけているんですよね?」
■考えたこともないことを考える
私はこの投稿を行ったとき、
「心を開く」という行為を
「自分のなかにあって外に出さない自分を出すこと」
程度に捉えていて、
ドラマによくある
“口を閉ざしていた子が、ようやく言葉を発する”
的なイメージも強かった。
いや、実際に「仲よくなる」のとほぼ同じ位置付けで
扱われることが多い言葉でもあると思う。
しかし、
そもそも自分にも見せたくないものを他人に見せられるのか、
少しだけ自分を見せる行為は「心を開く」とは言えないのか、
何を誰にどこまで見せることを「心を開く」行為と言うのか、
と私は、
「心を開く」という言葉の範囲について、
これまで生きてきたなかで最も
深く考えるという経験をした。
ただ、
ここで言いたいのは、
「心を開く」の定義とは何か、
ではない。
そんな風に、
ある言葉や
あるいは出来事について、
共感し合いながら深く考える。
そんな時間を、
noteのコメントというシステムは、
つくりだしてくれる、
ということなのだ。
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