人生は、基本的にうまくいかない。清水ミチコ著「カニカマ人生論」。
■「清水美智子」がそこにいた
ステージでモノマネを披露する
ときよりは少しだけ真面目に、
清水ミチコは、
自らの子供時代から現在までの
人生を綴ってみせた。
そこには、芸人・清水ミチコ像を
いいようにつくりあげようとする作為は皆無だ。
選ばれた言葉から伝わってくるのは、
「私はこんな女です」と、
彼女の好きなビールの入った
グラスを持ちながらの
会話のように本性をのぞかせる
独白だ。そしてそれは、
本名の「清水美智子」に近いのでは、
という感じにもさせる。
だからすぐ横で聴いているかの
ような感覚にもひたれる。
プロ野球の強打者でさえシーズン前に
「今年はヒットが1本も打てないのでは」と
怖れるように、人は例外なく自分の弱さと
つきあいながら生きる。
清水ミチコの場合それは、
「恐れと怠惰がセットになって」
目の前のことを投げ出してしまうような
誰にもある訳ではない弱さだ。
その弱さは最初、高校受験の日に現れ、
以後それを自ら「爆弾」と称しながら
恐らく漠然とした不安を抱きつつ生きるのだが、
「清水美智子」の戸惑いや迷いを、
多少へこみながらも淡々と見つめる
清水ミチコの言葉にリードされるまま、
ときに自らのマイノリティな意識を
自ら不思議がるようなリアリティに
引き込まれていくうち、
そんな爆弾のような弱さは忘れて
彼女の人生の機微にぐんぐんと入り込んでいく。
■弱さと強さのマーブル
しかし清水ミチコは、
そんな弱さをもつ一方で、
“笑ってもらうこと”への偏愛と
何よりも稀有な才能によって、
タモリや永六輔など
大御所たちとの縁を引き付ける
奇跡的な運の強さも
控えめに語っていく。
こうして、
マイナスとプラス、
弱さと強さが入り混じる
マーブルのような生き方を、
何よりも吐息を感じさせるような
距離感で語られると、
私の心の中にもある苦い思い出と
いまだ捨てきれぬ希望の両方に
やわらかな手でノックされるような
刺激を与えられるのだ。
■悲しみに満ちた地球で
「人生論」と言うからには、
気の利いた名言をいくつか
紹介したいところだが、
それを始めたらキリがないほど
清水ミチコが出会った市井の人々の、
あるいは芸能界の諸先輩の、
そして彼女自身の名句が
キラキラと散りばめられている。
しかし、「人生論」として
私がもらってうれしかった言葉を、
一つ選ぶとすれば、
「世の中はむしろ、うまくいかないように
できていることを知ってた方がいいですよ」
という、帯にも書かれた
短大時代のアルバイト先の女性オーナーの教えだ。
そして清水ミチコは、これを受けて
「いつの世も、またいつの夜も、地球は
やんわり悲しみに満ちている」
と言ってのけるのだ。
さらに続けて、
「だからこそ、人は明るく生きようとして
ちょうどいい」
のだと。
■“湿り気”のある人生論
この世が「やんわり悲しみに満ちている」
からか、
清水ミチコが、世を渡っていく姿には、
しっとりとした“湿り気”がつきまとう。
しかしそれは、
「この成功法則に従って生きよ!」的な
乾いた人生論などに比べれば
遥かに自分事として受け入れやすく、
この胸のポストにすんなりと届くのであった。
スーパーで水気のある物を
巻き取ったビニール袋に入れるとき、
袋の口をすべることなく開けるためには
当然の如く指先に湿り気が必要なように、
人の一生にも「悲しみに満ちた」世を知った
湿り気のある、言わばウエットな思いが
なくてはならないのだ。
もしかしたら、それが潤いや温もりとなって
この本全体を包んでいるのかもしれない。
*
ここで私の人生を語らせてもらえれば、
独立してちょうど30年、
生来の不器用さでしなくともいい苦労を
し続けた私にとって、
思い返せばうまくいかないことばかりが
脳裏に浮かぶ。
そんなとき人は皆、
やんわりとした悲しみの
海に浮かんでいるとイメージすることで、
少しばかり心が軽くなるのを感じる。
*
タイトルの「カニカマ」は、
人をマネる芸に生きてきた彼女の半生を
カニをマネるカニカマになぞらえている。
読者も、きっとこのエッセイから、
「マネしてみようかな」と思える
いや「マネしたくなる」
生き方のヒントを
つかむことができるはずだ。