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捨てない生きかた (五木 寛之)
(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
このところ新たな刺激を受けることが減ってしまった五木寛之さんの著作の最新刊ですが、やはり一通りは目を通しておこうと思って手に取ってみました。
ちょっと前の “断捨離” ブームは収まってきたと思ったら、今回の新型コロナ禍で在宅機会が増えたこともあって “断捨離” がまた流行り始めたようです。本書のタイトルは、その “逆張り” ですね。
とはいえ、そこで語られる五木さんのメッセージには、時を経ても大切にすべき “心の持ち様” が記されています。
(p30より引用) ぼくは、孤独を癒やすひとつのよすが(縁)として、モノに囲まれて暮らすということがあると思っています。
モノに囲まれているということは、じつは〈記憶〉とともに生きているということなのです。
(p31より引用) モノには、「モノ」そのものと同時に、そこから導き出されてくるところの「記憶」というものがあります。モノは記憶を呼び覚ます装置です。
ぼくはこれを「依代」と呼んでいます。「憑代」とも書きます。
と、まず五木さんはモノと記憶の関係について言及したあと、続いて「記憶」の意義についてこう語っています。
(p68より引用) 見えない明日に向かって生きていくうえで、自分を後ろから支え、そして背中を押してくれる力を得る。過去の記憶を噛みしめるとは、そういうことなのだとぼくは思います。
過去の記憶は未来への推進力になるというのですね。
この過去の記録という点から、もう一か所。
五木さん所縁の「金沢の歴史」について紹介しているところです。
(p140より引用) 金沢は、たいへん珍しい歴史を持つ町です。大名といった領主のいない、集団指導制にもとづく、いわば共和制が百年近く続いた日本史上初めてと言っていいほどの町でした。一部では新調されて残っていますが、こういった歴史を示す立て札はいずれ撤去されていく傾向にあるようです。
「立て札」とともに「時代の記録」そのものも捨てられていくのですね。
やはり、これは寂しいことだと思います。
こういった世の中の動きに違和感を感じる五木さんのコメントは、大いに首肯できるものです。
(p143より引用) ダイバーシティ(diversity)といって、最近、多様性が重要だということがよく言われますが、町もまた、歴史的な多様性をもって今そこにあるものです。町全体の厚みあるいは奥行きが感じられるのは、そこに多様な歴史の記憶があってこそでしょう。
記憶を捨て去っていけば、フラットで平板、平面的で薄っぺらになっていくばかりです。実際、日本の町というものは、どんどんそうなっていっているような気がします。
奥行きのある空間や時間が作り出す “豊かさ” は、それに触れる人々に “心のゆとり” をもたらしてくれます。
さて、本書を読んで最も印象に残ったくだりを最後に書き留めておきます。
(p148より引用) 歴史の中には、隠そうとされるもの、忘却が望まれるものが必ず含まれています。モノとして何かのかたちが残っていれば、それを依代にして記憶は蘇り、物語として語られていきます。
忘れること、消し去られることに抗う「依代」の大切さはここにもあります。