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黒い海 船は突然、深海へ消えた (伊澤 理江)

(注:本稿は、2024年に初投稿したものの再録です。)

 いつも聴いている大竹まことさんのpodcast番組に著者の伊澤理江さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。

 漁船(第58寿和丸)沈没事故発生(2008年6月23日 千葉県銚子市犬吠埼灯台の東方沖350 km)から11年後の2019年、別の取材で訪れた小名浜港(福島県いわき市)での事故関係者たちの会話をきっかけに、その沈没時の状況とそれに対する公式報告の不自然さを奇異に思った伊澤さんが、事故の真相を粘り強い調査・取材で顕かにして行きます。

 数々の興味深いエピソードが記されていましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。

 まずは、第58寿和丸の運輸安全委員会による事故報告書。それは、まさに東日本大震災が福島を襲った直後に公表されました。

(p145より引用) そうした大混乱が全く収まっていない2011年4月2日、運輸安全委員会は第58寿和丸の事故報告書を公表したのだ。混乱の渦中にいた野崎や酢屋商店の関係者たちは、これをどう受け止めたのか。野崎が振り返る。
 「すごくショックだった。うちらだけでなく、福島全体の漁業もどうすんだ、こうすんだって やっているそんな時期に寿和丸の報告書を出すんだな。ひどい。本来は1年で報告書を出さなければいけないはずなのに、それを過ぎても委員会は報告書を出さなかった。『結論を出さないのはおかしいんじゃないんですか』と、ずっと言っていたんだけど、出されてみると、あのタイミングか、と」
 野崎や第58寿和丸の生存者らにショックを与えたのは、報告書の公表時期の問題だけではなかった。彼らを納得させる内容にはほど遠かった。
 報告書は、大きな波が第58寿和丸を襲い、船を転覆・沈没させたと結論付けていた。船体が損傷したのではないかという生存者や僚船の乗組員らの証言は、完全に無視されている。「船体損傷」の根拠と考えられていた大量の油の流出については、驚くべきことに、そもそもそこまで大量の油など流出していないという結論になっていた。

 そして、こう述懐は続きます。

(p147より引用) 酢屋商店社長の野崎は、最初に報告書を見たとき「あり得ない状況を組み合わせることで、どうやったら波で転覆させられるかを一生懸命考えたような内容だ」と思った。

 ここまで現場の証言や物証を無視し、委員会の「推定の積み上げ」を根拠とした報告内容がいかなる背景のもとで作成されたのか、伊澤さんの取材はその核心に迫っていきます。
 しかしながら、調査関係者の記憶を辿る道は遠く、また(ご都合主義?の)守秘義務の壁に阻まれ、得られたとしてもその証言は断片的で要領を得ないものでした。

(p184より引用) いずれにせよ、事故原因を特定できなかった運輸安全委員会は結局、「波が原因」という海保の見立てに追随して結果ありきの路線を進み、海事部会で議論を進めたのだろう。
 第58寿和丸の取材に着手した当初、私は、運輸安全委員会は何らかの真実を隠すために潜水調査を拒み、強引な報告書を作成したのではないかとの疑念を持っていた。それはある意味、買いかぶり過ぎだったのかもしれない。実際にはリソースが限られるなかで、「教訓を残す」という役割を外形的に整える仕事をこなしただけのように思えた。

 伊澤さんはそのようにも思い始めました。

 そして、その後も事故原因の究明に資するであろう専門知識を深め、関係者への取材を続けた伊澤さんは、幾重にも重なる “機密” の壁に遮られながらも、最終的には「潜水艦との衝突」が事故原因であったであろうと信ずるに至りました。

 今、第58寿和丸の事故原因を究明する営みは、公文書の情報開示請求に対する「不開示決定の取消」を求める伊澤さんたちの運輸安全委員会を相手取った行政訴訟という「司法」の手に委ねられています。

(p294より引用) 船体が沈んでいる以上、第58寿和丸の側から原因を特定し、証明することはほぼ不可能かもしれない。この先も続く私の取材は、結果として潜水艦の特定には至らないかもしれない。
 それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた。

 伊澤さんの真実追及への熱意が溢れ迸る本書、まさに “渾身の力作” です。



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