(注:本稿は、2024年に初投稿したものの再録です。)
いつも聴いている大竹まことさんのpodcast番組に著者の大森淳郎さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。
大森さんは長年NHKでディレクターとしてETV特集等を担当していた方です。
本書は、その大森さんが、NHK放送文化研究所の月刊誌「放送研究と調査」で連載した記事をまとめたもので、太平洋戦争当時、ラジオ放送に関わった「放送人」が何を考え、どう行動し、何をしなかったのかを貴重な証言や音源から顕かにしていくノンフィクション作品です。
紹介された数々の興味深いエピソードの中から、特に私の関心を惹いたものをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、日本放送協会(1926年に設立された社団法人:1950年設立の現在のNHKの前身)のラジオ放送における「国策的ニュース編集のはじまり」。
ある意味では “一次情報の意図的な歪曲” ともいうべき行為ですが、この目的に沿った軍とラジオ報道との連携は、「盧溝橋事件」で具体的に示されました。
こういう「国策」を支援する機能としてのラジオ放送も、当初は “報道” としての位置づけも持っていました。それが、1930年代初期満州事変勃発ごろから大きく変異していきます。
1932年に実施された「全国ラジオ調査(逓信省電務局)」も単なる聴取者の意見を聞くアンケート調査ではありませんでした。
「全国ラジオ調査」と「日本放送協会の機構改革」を主導した逓信省の田村謙治郎の言を大森さんはこうコメントしています。
なんとも悍ましい状況ですが、戦時下のラジオ放送は、戦況の報道のほかにも、こういった国民の教化・先導という役目も担っていました。むしろその役割が急速に強まっていったのです。
たとえば、日米開戦以降、“皇国民錬成上欠くべからざる教育のひとつ” と位置づけられた学校教育の場での「国民学校放送」。
「三年生の時間」の例です。
「音楽」という芸術教科においてすらもこういった様子でした。冷静にみれば誰もが異常だと思うような活動が、無批判にそれこそ本気で実施されていたという事実の重みは計り知れないものがあります。
ちなみに、私の父母は開戦直後に国民学校の学徒でしたから、まさにこの世情の中で児童教育を受けていたんですね。
当時、こういった “ラジオ放送” はアナウンサーにより伝えられていましたが、その語り口も太平洋戦争突入と同時に「淡々調」から「雄叫び調」に大きく転換しました。
1941年12月8日開戦の臨時ニュースを読んだ館野守男アナウンサーはこう語っています。
アナウンスそれ自体が、国民を扇動し戦争に動員するための手段とされたのです。
しかし、こういった勇ましいラジオ放送も、隠蔽不可能なほどの戦況の悪化を受け、その役割は変化していきました。
虚構を流布するよりはましとは言いながらも、なんとも、ご都合主義的な方針転換でしょう。
もちろん、この明朗闊達な放送は、ただでさえ厭世気分漂う国民を鼓舞し、最後の戦意高揚を企図したものでした。
そして、ショッキングなことですが、
ここでいう「彼ら」とは日本放送協会のラジオ制作関係者であり、アナウンサーたちでした。
そして、戦後、サンフランシスコ講和条約が発効した後も。
もちろん、NHK内部にも、こういった考えとは異なる「公共放送」の意味を主張する人間もいました。
解説委員室主管・中沢道夫さんは「放送の自由・覚書」と題する論考のなかでこう断じています。
今、2024年、少し前には「忖度」という言葉を世間の其処此処で耳にしました。
NHKに代表されるテレビ・ラジオはもとより、すべてのマスメディアの圧倒的な劣化が顕在化しているなか、本書で明らかにされた戦時下の報道・放送の実相が “デジャブ” として現れることがありませんように。
この大森さんの丹念な取材を積み上げた力作が、広く報道にかかわる人々にとって “メディアの矜持” を思い起す起爆剤となるよう、また、そういった健全なメディアの営みを底支えをすべき人々への気づきとなることを期待します。