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ルポ 自助2020 ― 頼りにならないこの国で (石井 光太)

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。

 今般の新型コロナ禍では生活弱者に対する政府の非情さが際立ちました。
 本書は、その現実に対し必死の思いで抗する人々の姿を描いたルポルタージュです。

 まずは、「第三章:保育園児の命を守るための闘い―西寺尾保育園」です。
 横浜市神奈川区にある私立の社会福祉法人聖徳会「西寺尾保育園」で保育士のひとりが新型コロナ陽性と診断されました。
 その際の行政とのやり取りは、まったく常人の理解を越えた理不尽なものだったのですが、本レポートはその糾弾とともに、もうひとつの視点を提示していました。

 新型コロナ陽性者が出たにもかかわらず、その事実の公表を押し止め開園を指示した横浜市に対し、子どもの安全を第一に対応した菱川園長は、これを機に「子育てとは何か、そこでは何を大切にするべきか」を問い直したのです。
 そのくだりでは、単に「コロナ禍対応での行政の不手際の追求」に止まらない、著者からの重要な指摘がなされていました。

(p83より引用) コロナにかぎらず、台風や大地震といった災害時にも、行政が保育園に開園の継続を指示したり、親が「こんな時だから保育園に預けておこう」と考えたりするのは、その表れだろう。恐怖に打ち震える子供たちが求めていることが目に入っていない。
 経済を回すという意味では、そうした方がいいのかもしれない。だが、菱川のいう「日本の未来を担う子供を育てる」という見地に立てば、こういう時こそ親が子供に寄り添い、愛情を注ぐことが重要なのではないか。大変だから保育園に預けておけばいいというものではないはずだ。
 そういう意味では、西寺尾保育園で起きた出来事は、はからずも日本社会が抱えている矛盾を照らし出したといえるのかもしれない。
 少子高齢化の中で、どうやれば子供優先の社会や家族のあり方を築いていくことができるのか。
 コロナ禍が投げかけてきた課題は大きい。

 次は、新型コロナ対応最前線の「医療現場」の実態を伝えるレポートです。
 大阪市立総合医療センターは大阪における重症患者治療の中核施設として新型コロナ専門病棟を設置しましたが、同時に小児がん拠点病院・小児三次救急病院としての重要な役割も担っていました。その両立を目指す環境下において、看護師も患者もともに重い負担に耐えていました。

(p223より引用) 病院内では、新型コロナへの対応によって看護師等の配置転換が行われていた上に、感染症対策や、それまで家族やボランティアが担っていたことを代わりにしなければならなくなったことから、一人当たりの仕事量が格段に増えていた。それが病棟の看護師の負担となって襲いかかっていたのである。
 病院の規則が変わったばかりの頃、日香里を含めて患者たちは未知の状況に動揺を隠しきれなかったが、同じくコロナ禍に振り回され、疲弊していく看護師を間近で見ているうちに、だんだんと「自分がしっかりしなければ」と思い直すようになった。
 看護師にこれ以上の負担をかけるわけにいかない、そのためには自分自身でできることをやらなければ。

 新型コロナ禍による医療現場での混乱や負荷は、医師や看護師たちのみならず通常の入院患者たちによる “自助” をも生起させていたのです。

 今回のコロナ禍は、それが “本性” だと思いたくはありませんが、今の社会の様々な人々の実相を顕在化させました。

 最初にクラスタが発生したことがマスコミにより歪曲して報道された高齢者施設「グリーンアルス伊丹」では、

(p24より引用) 世間からグリーンアルス伊丹に対するバッシングがはじまったのはこの頃からだ。情報が不十分な中で、マスコミが散々誤解を生じさせるような報道をしていたことで、人々が怒りを向けるようになったのだ。
 ただでさえ多忙を極める中、施設の窓口には連日のようにクレームのメールや電話が押し寄せ、ネットには大量の罵詈雑言が書き連ねられた。施設の壁にも、何者かによって黒いマジックで「伊丹の癌」「集団感染があった施設」という落書きがなされた。

 そうかと思うと、虐待下の子どもたちを預かっている「江戸川区児童相談所」では、こんなことも起こっていました。

(p107より引用) 「こういう危機の時だからこそ、近隣の人たちの手助けもありました。四月に入ってしばらくして、近所に暮らすご夫婦が、「大変だろうから、これで何とかしてくれ」とかなり高額な寄付をしてくださいました。・・・」
 同じようなことは他の児童養護施設でもあったようだ。都内のある施設では、緊急事態宣言が出た後、近所のレストランチェーンの社長から連絡があり、無償で食料を届けたいという申し出があった。・・・
 また、同じ施設の話では、その他にも予期しなかった複数の支援の話があったという。買占めによる紙製品の不足が深刻化した時には、ドラッグストアの店長から、「トイレットペーバーやティッシュを優先的に回します」との申し出があったり、ある企業の社長さんが連絡をしてきて、マスク千枚と大量の消毒液を寄付してくれたりした。国の支援が届かないところを、民間の人たちが支えてくれたのだ。

 どちらも「人」です。

 この長く続き未だに明確な出口が見えない新型コロナ禍の中、「行政」の立場で、困窮している人々のサポートに尽力している「人」も大勢いらっしゃるでしょう。しかしながら、やはりこういうときこそ、「施策」という形で一人一人の動きでは成し得ない大きな手を差し伸べるのが「政府・自治体」のあるべき姿だと思います。

 残念ながら、本書で紹介された数々のエピソードが伝えているのは、総じてまさに現場当事者個々人による「自助」の姿です。
 そもそもこういう苦しい状況は、決して「自らの責任(自己責任)」で生じたものではありません。だとすると、当然、まずは「公助(国・自治体)」が動くべきでしょう。

 公助の原資は、国民であり当事者から供出された税金であり、それゆえ、その税金の使途を「公助のための施策」とすることには何の問題もないはずです。
 国民のため当事者のための対策が “自助・共助” がなされた後にしか取られないようでは、いったい誰のための “公” なのか、公助が “最後に登場するセーフティネットだ” というのは、全く本末転倒だと言わざるを得ません。

 さらに、それに輪をかけて悲惨な現状は、公助の名のもとでなされる対策の多くが、あまりにも的外れで “セーフティネット” としての機能すら果たせていないということです。



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