荘子 ヒア・ナウ (加島 祥造)
(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)
久しぶりに老荘思想関係の本を読みたくなったので手に取ってみたものです。
「荘子」原典の解説ではなく、「口語意訳」といった体裁なのでとても読みやすい著作です。
著者によると、英訳された「荘子」をもとに自己の感性も加えて自由に訳したとのことなので、さもありなんというテイストです。
たとえば、こういったトーンで書き綴られています。
すべてのものは「ひとつ」のものから始まりましたし、視座を高めると、結局のところ区別を超えた「ひとつ」でしかないということです。弁証法にも似た考え方ですね。
ただ、弁証法の場合は「違い」があることを当然の前提とし、それを明確化したうえで「止揚」する考え方ですが、「荘子」の場合はちょっと違います。もっと大らかに、異なるものを意識せず包み込むようなイメージがありますね。
本書は「荘子」の部分意訳ですが、ところどころに「老子」からの章句が採録されていて、そのフレーズが「荘子」の逸話で伝えようとしたエッセンスであるとの位置づけとなっています。
知識を増やすということは、ものを区別するということの一側面でもあります。また「作為」でもあります。違いを意識し際立たせるのが知識です。「タオ」の道は、「非区別」に向かいます。
「無為」を目指すのは、ある意味、今まで拠って立っていたものを捨てることにもなりますから、かなりの思い切りや勇気が必要なように思います。が、そう強く意図して目指すのも、また「タオ」には相応しくないのでしょう。
さて、本書の「あとがき」に相当する章で、「老子道徳経」と「荘子」との特徴の違いについて、著者なりの見解を紹介しています。
「荘子」で紹介されている寓話、「胡蝶の夢」にしても「木鶏」にしても、知らず知らずのうちに常識と思っている私たちの「前提概念」を鮮やかに切り返してくれます。この刺激は爽快でとても心地よいものです。
老荘の思想に傾倒するか否かはともかく、こういった「思考の楔」は大切だと思います。