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この国のかたち〈6〉1996 (司馬 遼太郎)

 会社の方のお勧めということで読んでみました。

 月刊文藝春秋に発表された数編のエッセイを軸に、氏の随想集からの作品や「歴史のなかの海軍」という未刊行作品が併録されています。
 今までも司馬遼太郎氏の作品は、小説・エッセイと数々読んできました。特に大ファンというわけではありませんが、読めば必ず「新たな視点」に気づかされます。

 特に歴史の流れを、独特の切り口でザクッとつかんで意味づけする、こういう大局観は見習いたいのですが、(当然ではありますが)全く足元にも及びません。

 まず私の興味を惹いたのは、「言語についての感想」というエッセイでの一節です。

(p80より引用) 十二世紀後半に成立した鎌倉幕府は、農民の政権であった。かれらをもって「武士」などとよぶのは定義のあいまいな呼称で、公家からみれば律令農民であり、かれらが私的に結束し、ほしいままに武装し、律令の土地制度の矛盾のはざまに成長して土地制度を働く側から恣意的に合理化した非合法政権といっていい。しかしながら、こんにちまで脈絡のつづく日本社会史は、このときからはじまったといえる。

 鎌倉時代は「武家」の時代と言われますが、「公家」の視座からみた武士の位置づけは普通の歴史観からはなかなか聞かれません。
 こういう視座の転換は、(タイプは異なりますが、)網野善彦氏の歴史学にも見られるもので、非常に興味深いものがあります。

 また、「原形について」というエッセイの冒頭では、こういう独特の言い回しがみられました。

(p135より引用) 他国を知ろうとする場合、人間はみなおなじだ、という高貴な甘さがなければ決してわからないし、同時に、その甘さだけだと、みなまちがってしまう。このあたりも、人の世のたのしさである。

 「高貴な甘さ」というのは、いかにも相応しいことばです。また、こういう人と人との関係における不確実性を「たのしさ」と捉えるのも流石の感性だと思います。



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