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蜘蛛の糸・杜子春 (芥川 龍之介)

(注:本稿は、2014年に初投稿したものの再録です)

 混んでいる通勤電車の中で読むための文庫本が切れたので、いつも行く図書館で借りてきました。本当に久しぶりの芥川龍之介です。

 おそらく遥か以前、ひょっとすると30年から40年前に一度は読んだことのある作品が大半だと思います。が、細部に渡って記憶に残っているかというと、「蜘蛛の糸」や「杜子春」ですら危なっかしかったですね。

 改めて読んでみると、それぞれの作品の書き出しのシンプルさが印象的です。
 たとえば、「蜜柑」では、

(p30より引用) 或曇った冬の日暮れである。

「魔術」では、

(p36より引用) 或時雨の降る晩のことです。

「杜子春」では、

(p50より引用) 或春の日暮れです。

「アグニの神」では、

(p70より引用) 支那の上海の或町です。

「白」では、

(p112より引用) 或春の午過ぎです。

 また、特に、「蜘蛛の糸」の書き出しと結びに見られるシンメトリー的な対比は面白いですね。

 始まりは、

(p8より引用) 或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう。

そして、おしまいは、

(p12より引用) 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。・・・
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢あふれております。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

 また、お釈迦様を描く穏やかな筆致と、それに挟まった地獄での犍陀多の描写とのコントラストも見事です。

 さて、本書を読み終わっての感想です。

 多くの作品は、人間の弱さとともに人間の優しさも描かれています。芥川自身、年少者が読むことも大いに意識した作品群なので、読み終わっても妙な心のしこりが残らないのがいいですね。「猿蟹合戦」を除いては・・・。



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