漢字 (白川 静)
漢字研究の第一人者と言われる白川静氏が記した、文字通り「漢字」に関する著作です。
ともかく、著者の博識には驚かされます。文字の構造・成り立ち・背景等々、次から次へと途切れることなく豊富な知識が迸り出てくる感じです。
白川氏によると、古代中国の殷は神話の国であったと言います。神話の国の文字として象形文字が生まれました。卜い(うらない)のための甲骨文字がそれでした。
それに対し、周は天命による徳治の国でした。周には神話がありませんでした。
(p116より引用) 周は、西方の諸族を連合して殷をうち、帝辛が再度にわたる東征によって国力を消耗しているときに、これを破って周王朝を建てた。しかし、周には、殷に代わりうる神話がなかった。神話は、種族の生活の中から生まれ、久しい伝承を通じて形成されるものである。かれらは、その王朝の秩序の基礎として、新しい原理を求めなければならなかった。王たることは、ただ帝の直系者たるその系統の上にのみ存するものではない。それは帝意にかなえるもの、天命を受けたるものに与えられるべきものではないか。天命は民意によって示される。民意をえたものこそ、天子たるべきものではないか。民意を媒介として、天の認識が生まれる。そこに天命の思想が成立する。天命の思想は、殷周の革命によって生まれ、革命の理論であるとともに、周王朝の支配の原理でもあった。
周代において、象形文字としての漢字は変貌を始めます。
(p122より引用) 周は政治的には支配者であっても、文化的にはなお甚だ後進の国であった。
伝統を持たない文化的後進性をカバーするため、周には、何がしかの新たなよすがが必要でした。
(p122より引用) 周人の創造に帰すべきものがあるとすれば、それは天の思想である。そしてこの思想革命は意識の変革をもたらし、文字についても、従来の語義の内容に、かなりの変改を与えたことは、否めない事実である。
漢字がつくられた方法には6つの種類があると言われます。いわゆる「六書」です。六書とは、象形・指事・会意・形声・仮借・転注です。
象形に始まった漢字も、思想・概念を表す必要性にいたって、指事・仮借・転注等々、急激に増殖を重ねることとなりました。
(p15より引用) 古代の文字は象形文字であるが、仮借による表音的な表記方法の発見、すなわち象形の原理を超えたところに、文字が成立するのである。
本書は、「漢字」に関する本ですが、その背景の説明として中国古代史に関するいくつかのエピソードも紹介されています。
その中で、私が関心を抱いたのは「春秋時代の学生運動」についてです。
(p83より引用) 学生運動は、もっと古い時代からあった。春秋のとき、鄭の郷校の学生がさかんに国政を批判し、騒ぎは収まらず、郷校は閉鎖されようとした。このとき子産は、言論の自由を抑止するのは、河水を壅ぐのと同様に危険であると警告して、閉鎖に反対し、これを阻止した。紀元前五四二年のことである。
その他の気づきとして、もう一つ。
私が教えられていたことと違った説としては、「仁」という漢字の成り立ちがありました。
(p177より引用) 仁は衽席(しきもの)の衽の初文。これを二人の意とし、人間関係の根本にあるものと解するのは、仁という観念が成立したのちにつけ加えられたもので、仁は仮借字にすぎない。このような転化や仮借によって、新しい観念が表現される。
「仁」という文字の変遷は、まさに「新しい思想・概念」の登場によるものだったのです。
(p123より引用) 語義は、社会生活とその意識の変化によって推移する。殷周の際は、そういう意味でも、歴史的に重要な一時期であった。
殷から周への移ろいは「漢字」にとっては極めて大きな変革期だったようです。
(p188より引用) 文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立においては、神とともにあり、神と交通するためのものであったからである。