11、縄文人の視点から
❍縄文人が考えた“ワ”地域
縄文人は国という概念を持っていなかったと考えています。ですので、"倭国"とは呼ばず"ワ"地域と呼びたいと思います。
前回、倭国と奴国の関係について考えてみました。簡単に説明しますと、縄文人と弥生人との関係から始まったのではないかと考えました。
つまり、縄文人は、北部九州に弥生人が入り込み生活を始めた時に、他の民族との接触によって、自らの民族を「ワ」と呼ぶ必要性が生じました。
自分の事を示す「ワ」という発音が、民族という集団において使われるようになったのです。
しかし、その「ワ」人の住む地域の中身は一万年も続いた、縄文文化の中で出来あがった共同体の集まりです。
今でいう、県や市町村にあたります。当然、縄文人は普段はこのような共同体への帰属意識しかないと思われます。
❍縄文人はあわてない
縄文文化しかなかった日本列島の一部に、弥生文化を営む「ナ」地域が現れたからといって、突然「ワ」国として一つにまとまるわけはないのです。
「ナ」地域の拡大によって、弥生文化に影響を受けた共同体同士の新しい関係、は北部九州から少しずつ伝わっていったと考えられます。そして、そのような過程において、どの共同体が代表になるのかなど問題がたくさん出てきたと思います。
❍倭国における新しい共同体代表
後に、「倭国」は「大和国」との漢字が当てられるようになります。その読み方は、「やまと国」です。この時点で、共同体の代表が大和朝廷と決定したのです。それまでは、「ワ」と「ナ」と呼ぶしかなかったのでしょう。
❍邪馬台国と大和国の関係
これは、既に大きな議論になっています。私にもわかりません。
しかし、今回の考え方では
弥生文化が始まった頃に、大陸から金印を受けたのが奴国であります。そのような文化を見た縄文人はその地を異国のように受けとったと考えています。
そして、その奴国の繁栄は、非常に長い期間であったと考えています。つまり、奴国は日本の歴史において全く新しい文化を受けいれ、最初に他国と関係を築いた国と考えています。
その後、奴国はなんらかの影響により力を失います。そして、他国から金印を受ける地位を奪ったのが、邪馬台国の女王、卑弥呼です。奴国と対立するには、その必要があったのかもしれません。邪馬台国は今回の考え方では南部九州にあると考えており、縄文文化圏の国だったと考えています。
そして、卑弥呼は狗奴国を攻撃したと、魏志倭人伝に記載されています。狗奴国は奴国の軍事拠点であったと考えています。つまり、長い間繁栄を誇った異国を攻撃したのです。結果がどうなったのかは書かれていません。
つまり、日本が一万年以上続いた縄文時代から、弥生時代に移行する際に、このような二大国の攻防があったと考えています。
❍縄文人はどのように考えるか
縄文人は、「ナ」地域を異国のようにとらえています。そして、その背後では縄文人とは全く別の文化を持つ、謎の勢力と関係を持っています。そのような地域を縄文文化圏の邪馬台国は攻撃したのです。結果はどうあれ大変な決断だと思います。
縄文人が邪馬台国を、「ワ」地域の共同体代表候補のーつである、と考えたとしてもおかしくはないと思います。
❍最後までお読みいただきありがとうございました
今回も、想像のレベルが上がってしまいました。しかし、物語としてお読みいただくと面白いのではないかと思います。