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日本の企業変革は大企業ほどできないわけ

【日本の大企業は来ない】
経営学では名前の売れている若手、入山先生の記事。

これを見て「そりゃそうだ。」と思った。

【日本の上場大企業の歴史の元は「朝鮮特需」】
日本の大企業、特に製造業と、それを支える金融業や銀行業など、さらにその人たちの衣食住を支える大企業のほとんどは、戦後5年の1950年、お隣の朝鮮半島で起きた朝鮮戦争による「朝鮮特需」から大きくなった。朝鮮半島という日本の隣での戦争では、中国軍が加勢した北朝鮮軍は非常に強力で、韓国軍・米国軍はかなり苦労し、損失も大きかった。北朝鮮と韓国の国境は朝鮮半島の南の端である釜山近くまで来た。

【朝鮮特需で「豊かな日本」が始まった】
この戦争では韓国側は「兵器」「自動車」だけでなく兵士や逃げ惑う民間人の着る服、食べ物など、膨大な物量で、なんとか国境を今の国境線に押上げた。日本はこの戦争の短期間の膨大な需要で重工業から軽工業まであらゆる業種が潤い、大きくなるきっかけをつかんだ。今の日本の上場企業も、元はといえば殆どが「朝鮮特需企業」だった。

【それまでは日本は貧しかった】
なにせ1945年の日本の「敗戦」は、天皇家さえ危うく、当時の若き昭和天皇も、米国占領軍総司令部のマッカーサーに会いに行った(天皇が自ら会いに行たのは米国本国の大統領ではなく日本の出張所の所長!)ときは、死刑さえ覚悟した、というのは有名な話だ。東京はボロボロで、東京の街には占領軍兵士目当ての売春婦が多く、戦争で親を亡くした孤児がどこにでも溢れていた。日本人の生活はどこに行っても貧しかった。

【社員をどうやって食わせるか?】
こんな時代を経験した日本の現代の大企業だから「革新的なビジネス」どころの話ではなく、毎日社員をどう食わせるかに必死だった。それは企業という形にした「食っていくための共同体」だったんだから。

【土間で半身裸で溶接・トヨタの工場】
戦争で日本軍のいち兵士としてベトナムに行き、トヨタがまだ小さかった戦後すぐの時代に、先日亡くなった豊田章一郎氏の家に貧しさのために居候して、後にトヨタの役員を経験、さらにトヨタの最大の子会社の社長を最後に退職した方に、その当時のトヨタ自動車の工場の中の写真を見せていただいたことがあった。工場内は全くのむき出しの土間で、上半身裸の工員たちが必死の表情で溶接などをしていた。その姿は今見れば「昔の町工場」以外の何物でもない。当然、半身は小さな火傷だらけだっただろう。それは、私が写真を見た印象では「会社」というより戦場に近かった。それでも、明日のご飯がこの過酷な環境で保証される。命はある。戦争のように命を的にするような、明日の命が保証されないような過酷さではない。戦争が終わって良かった、と、誰もが思っただろう。

【どこを見渡しても貧しい日本で】
繰り返すが、そんな「どこを見回しても貧しさしか見えない」日本社会の中で「食っていくため」にできた「共同体」が日本の大企業のルーツなのだから「革新的な」と言ったところで「食えるならやるが、食えないならやらない」と、古参の役員に言われるだけだろう。今や世界に名だたる日本の製造業者は、リスクを負って革新的な会社にする、なんてのに、本当は興味がないのは当たり前だ。

【豊かな時代に】
ビジネスの世代交代をさせたいなら、企業ごと潰して新たな現代の企業を作るしかない。しかし、運命共同体の深い絆で結ばれた、おそらく粘りも強靭なその企業を潰すのは容易なことではないだろう。

【日本の大企業は「運命共同体」】
運命共同体のルーツを持つそんな企業の外野から、実際に企業の経営、言い換えれば多くの社員とその家族の人生に責任も無い「ああすればいい」程度のコンサルタントの話。軽くしか経営層に響かないそんな話が、企業内に響くことはない。ダイナミック・ケイパビリティなどの本には「企業が変われば」とは書いてあるが、この80年続いた強固な企業文化を崩せるわけもない。

【日本の大企業の経営とは】
日本の大きな企業の経営の裏側には、自分以外の人たちのことを真剣に考え、ある時は、そのために命を落とした先人の思いを胸にして、ある時は食うや食わずの家族を抱えた共同体の仲間を思い浮かべ、そうやって生きてきた人たちがリアルに、今ここにいるのだ。戦後の日本という過酷な「与えられた環境」の中で必死にもがいて、なんとか生きてきた数多くの人の歴史を背負っている人たちには、だから「経営改革」は、したくても、できない。

【企業の歴史からすべてを語れ】
豊かに変わった時代に生きていく、これまでの歴史以上に強力な「生きる道」を示せなければ、外野の話はそれだけで終わる。

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