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「人の時代」の終わりは突然に。
【「違う道」を選んだ】
ぼくは基本的なところで、同年代の男とはかなり違う道を歩いたので、メンタリティもかなり違う感じがしている。29歳の時にコンピューター言語の本を書いて売れ、それで会社を作り、成功っぽい事もあったが失敗ももちろんあった。35歳位には自分は、普通の社会人なら50歳位の感覚だったんじゃないかと、自分で思ったことがあるし、人にそう話したこともある。それだけの経験を短い間に積んだ、と思っている。
【「自己啓発セミナー」に呼ばれたが】
30歳代前半には、小さな企業の社長だったわけだが、その時、いわゆる「自己啓発セミナー」に呼ばれて行ってみたが、全く響くものはなく、つまらないので、3日間続くセミナーを最初の日だけで後はすっぽかした。実際、それは自分にとって必要ないと判断できたし、こういうものにもともとハマるメンタルは自分には無かったと思う。好きなことで仕事をしていたし、それは順調だったし、もともとぼくは「落ち込む」という経験そのものが無く、自分にある程度以上に満足しつつ、でもまだまだ、それ以上に前を向くエネルギーと環境を持っていたので、こういったセミナーや新興宗教などが「つけ入る隙」が、当時のぼくには1ミリもなかったんだな、と、今にして思う。ストレスも無いのは今も同じだが、加えて自分の不憫さに嘆くこともなかった。苦労も苦労とは思わない性格もあった。嫌なことははっきり嫌と言えたし実際に言った。「言えない」というストレスそのものが無かった。
【自己啓発セミナーのひと】
僕を呼んでくれた人も含めて、じゃんじゃん電話がかかってきて「なんで来ないんだ。早く来い」攻勢があったが、一切応じなかった。最後には「そんなに自分を来させたいなら、責任者の人、ここに来て」と言ったら、それ以上の電話はかかってこなくなった。こういった「取引」の場合(ぼくは事業でこういう場面には慣れていた)、相手にとって過大な条件の要求を突きつければ、こういう人たちは諦めることを分かっていたからだ。こちらはお金を払っている「客」でもあるから、相手がこちらに脅しをかけるような立場にはなれない、ということはわかっていたしね。
【自己啓発セミナーに来た人】
最初の日、セミナーの終わりに「明日も来る人、手を上げて」って、所属する小グループ単位でやらせるんだが、ぼくは最後まで手は上げなかった。小グループの人にも「明日から来ません」と、はっきり言っておいた。言った以上は「有言実行」でいくのが当たり前。そう思っていた。しっかり事前の意思表示したわけだし、いい加減なことをするのは、対した人たちにとっても、いろいろな意味で真剣にセミナーを主催する人にとっても非常な失礼にもなる。ウソや隠し事は一番の相手への失礼になる。なによりも自分の意思表示を裏表なく、はっきりしないと時間の無駄だ。それはそのままサンクコストそのものとして、相手の事業にのしかかる。失礼以上に、相手の事業へダメージを与える。当時のぼくにとって、それは望むところではなかった。自分も事業主であったし、その事業は当時としてはまだ海のモノとも山のモノともつかない「IT」という単語ができる前のITだったからだね。自転車で海を渡ってハワイには行けないことをまずは認識しないといけないからね。
【「ハイな状態」は長続きしない】
もともと「人格が変わる」と当時言われていたそういうセミナーは都内にいくつかあり、ハマる人も多かったが、結局はそれが一生続くような人は見たことがなく、要するに「人格改造ビジネス」なんだな。かなりアコギで不自然なビジネスだなぁ、くらいにしか思えなかったが、そんなもんだったんだな、と、今も思う。なにせそのセミナーで「上がった」人はそのハイな状態を長続きさせることはまずない。
【当時の新興宗教団体】
当時は、創価学会はじめ新興宗教団体も元気があり、日本の高度経済成長期の最後の、組織人養成の場として賑わっていて元気だった。今はどれも見る影もない、っていう感じだね。実際にそれらの宗教団体にも個人的興味があって結構深く潜入して見たが、セミナーよりも宗教団体のほうが、生活に密着した面を持つだけに離れにくくなるだろうなぁ、と思ったよ。
【「潜入」しても「同化」できず】
結果としてぼくはそのどれにも「潜入」はしても「同化」はできなかった。まったく人格の成り立ちが違う、っていう感じなので、ぼくのことは、すごく扱いにくかっただろうねぇ。ごめんね。理解もされないし、できない、相互にね。響き合うようなものは全く無かった。
【戦後日本の組織人のメンタルを支える「司馬遼太郎」】
思えば、日本の戦後の企業などの組織で身を粉にして働く人たちのバイブルが「司馬遼太郎」の一連の本だったように思う。創価学会等の信者の家に行くと必ず司馬遼太郎の本がいっぱいあったので、そこにこういうものにハマる人のメンタリティを見たな。ぼくは当時読んでもあまり面白くなかった。ぼくが大学のときにハマった文学は「安部公房」だったしね。
【しかしノーベル文学賞からは遠い「司馬文学」】
大江健三郎、安部公房、川端康成等、あえて加えれば三島由紀夫などノーベル文学賞には手が届いたものだが、司馬遼太郎はいくら売れてもノーベル文学賞受賞者にはなれないのは誰の目にも明らかだ。せいぜい国内の出版社の主催する文学賞が精一杯。内容がその程度のものだからだ。と、私は思っているのだが。
【「社員の制御」不能な時代】
今は企業内でも自己啓発セミナー的なことをすると、その場で社員が辞めてしまう時代になった。それがいいことか悪いことかは、私は言うつもりはない。ただ、時代の環境が変わったのだ。昔は「司馬遼太郎」。それはいま、失敗もしてなんとかこの世をかっこ悪くも泳ぐ「島耕作」に変わったのだ。
【ロボットがすべきことはロボットがやるのが良い結果を出す】
高度経済成長期とはロボットのような人間を「量産」し、多くの人から人間としての尊厳を奪ったと私は思う。いま、多くの若者は大人しく見える。一方で「うっせいわ」が流行ってライブ会場を一杯にする。デジタルがインターネットになり国境を越え、AIが人の仕事を奪う。自己啓発セミナーや宗教で陶冶しロボットのような人間を作ってきた世の中は、ホンモノのAI付きロボットがコストと正確さと速さで淘汰していく。
【こうすると人の歴史は終わる】
人は、この数十年という短期間でこれまで手にしてきたあらゆるものを失っていく。そして今一度考える。「人とはなにか」。それに答えが出せなければ、人の歴史は終わるだろう。深く思慮せよ。それに人間の存在がかかっている。
さもなければ地球とその自然は「人の時代」を終えるだろう。
私はそう思っている。