121「デミアン」ヘッセ
89グラム。「そんな人いないだろ」っていう感じの友人が出てきて、「そんなこと言わないだろ」っていう感じのことばかり言われる。だんだん変な気分になってきて、しまいには友達のお母さんにまで惚れてしまう。するとお母さんまで、なんとなくメーテルっぽい思わせぶりなことを言いだす始末。大変なのだ。
高校生のときに読んでいたら語り手のシンクレール君に共感して、メンター的な賢いことを言って導いてくれるデミアンの存在にうっとりしたのではないか、と思う。
しかし面目ないことにこちらは、デミアン君の親でもおかしくないくらいの年齢になってしまっている。そうなると「学生の身で何を根拠にそんなに自信あるんだ」というようなことを、やっぱり思ってしまうのである。
かわりに、幼いとはいえちょっと言うことに感心させられてしまうのは悪役として登場する不良少年フランツ・クローマー13歳だ。
10歳の語り手シンクレールはある時、不良少年クローマーのご機嫌とりのためにリンゴ泥棒をしたという武勇伝をでっちあげて語って聞かせる。それをきいた不良少年はその話をネタに、シンクレールからお金をゆすり取るようになる。
不良少年クローマーは言うのだ。
「おまえを困らせようというんじゃない。おれは実際お昼前に金を手に入れたいところなんだ。おれは貧乏なんだ。おまえはきれいな着物を着ているし、お昼にはおれより上等なものが食えるんだ。」
格差社会といわれて久しい現代人としてこれを読むとちょっとクローマー君の演説にニヤッとしてしまうところは、正直あるのだ。
生まれる家がたまたま逆だったら。いい服を着ていい物を食べているのは不良少年クローマーの方だったはずだし、一家そろってなんとなく品がないとか軽蔑されているのは語り手シンクレールだったはずだ。
シンクレールは不良少年に脅されていたこの時期を、自分の善なる世界に悪が浸食してきた強烈な体験として記憶する。それはもちろん、10歳くらいでその経験は本当に怖いだろう、シンクレールの言う通りだ。
でも一方ではシンクレールが確固たる「善なる」「安全な」領域を持っているのも、彼の育ちがいいから、ではある。
不良少年クローマーは「父親は酒飲みで、家族全体が悪い評判をうけて」いるのである。わけわからないものが侵入してこない安全な領域なんてものを、もったことすらないかもしれない。
語り手シンクレールがあまりにも無邪気に享受しているその楽園のような子ども時代が、そもそも不良少年クローマーにとっては手にしたことのない贅沢品なのだとしたら。お上品な様子をして、ちょっと軽蔑しつつそばにやってきて、適当に悪ぶった話なんかされるとむやみに腹が立ってしまう気持ちが、わたしは理解できてしまう。
シンクレールが悪の世界との遭遇に心底参っているときに綺羅星のごとく謎の少年デミアンが現れ、不良少年クローマーを何らかの方法で見事に追い払ってくれる。どんな方法を使ったのかは、読んでもわからない。
そして謎の少年デミアンは、聖書の弟殺しの物語「カインとアベル」にちなんでこんな解釈をする。「カインは臆病者のアダムを打ち負かした。ひたいに付けられた印は殺人の罰ではなく、勇気あるものの印である」。勇気あるものは善悪にとらわれることなく己の道を進んでいかねばならない、という話である。
まあ、わからなくはない。お前は頭がいいんだから、良いとか悪いとか言われたことだけ信じて生きてないで自分のなすべきことをせよ。
一方でこの理屈が通ってるとすると前述の不良少年の「君は根拠なく俺より多くを持っている。したがって俺はいかなる方法によっても君から金を取る権利があるよ」という不良少年クローマーの富の再分配理論を何によって退けたらいいか、というところがちょっと怪しくならないものだろうか。13歳なりの確信をもった革命行為であると主張したら、否定の根拠はひたいの印の有無だけか。クローマーのひたいにだって、たぶん不良の印がついているはずだ。
概念から出てきて概念をしゃべってる謎のデミアンより、生活に即して即物的なことだけ考えながら図らずも結構いい事を言ってしまう不良少年クローマーの方がなんだか生き生きして興味深く見えてしまうのも、時代ゆえか。
もしデミアンと不良少年の対決で、不良少年の方が勝っていたら。あるいは謎の少年デミアンが不良少年クローマーのメンターとして登場したのであったら。急に今っぽい話になりそうだ。