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読んでない本の書評69「悪童日記」

168グラム。軽々と読まされるが衝撃の地雷はあちこちに埋まっている。

 通常の読書体験から予想をたてると、自分のことを「雌犬の子」なんて平気で呼ぶ人には心を開かないし、幼少期の優しい思い出を全部持っている母から離れて疎開生活を送っているなら再会がとりあえずの生きる動機だし、「父の屍を乗り越える」という言葉は表現上の比喩だ。
 そういうものを、別に説明もなくいきなり全部ひっくり返してくる。

 よく考えて見れば、これは「悪童」の「日記」なのだ。訳者の解説によると原題は「大きなノート」というような意味らしい。
  戦争中の疎開先で勉強を続けるために双子は大きなノートを手に入れる。そしてなじみのない田舎の初めて会った祖母の家で、二人きりで作文の演習をするのだ。二人だけで書き、お互いチェックしあって合格だったものを大きなノートに清書する。そのノートこそがこの「悪童日記」である。

「良」か「不可」かを判断する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

 こうして感情を定義する曖昧な言葉は注意深く退けれられ、子どもにしては奇異なほど淡々とした文体が出来上がるのである。なぜ作文の練習で、それほど厳密に曖昧さを排する必要があると考えたのか。

 奇妙な状況だ。頼れる大人もいない状況の中で双子の少年がお互いに見せるためだけに書いた「真実」。それを、より正確に共有できる文章になるようにチェックしあい、ひとつのストーリーとして編んでいく。

 ここに書かれている双子は大変なスーパーマンである。
 どれほど汚くて臭い恰好をしていても、司祭館の女中からも占領軍の将校からも性的な誘惑を受けるほどの美少年だ。それゆえに便宜ははかってもらえるが凌辱されることはない。
 農場の仕事はなんでもできるうえに、爆撃で壊れたレンガと板で川に頑丈な橋をかけるなどという土木仕事もできる。そして森でいろんなものを手に入れる。
 もらったハーモニカで聞き覚えた歌を演奏できるようになり、外国の歌も習得、誰にも教わらない軽業と手品まで身につけて居酒屋で稼げるようになる。
 最初にいた占領軍の言葉(おそらくドイツ語)は将校から借りた辞書によって数週間で覚えてしまっている。次にやってきた解放軍の言葉(おそらくロシア語)もおばあちゃんが話しているのを聞いているだけで軽々と覚えてしまう。

 読んだ感じではせいぜい13歳くらいの子に思えるのだ。
 それが厳しい戦争を生き抜き、母を拒絶し、祖母を卒業し、父を踏み越え、自分たちの意志で自分の世界に乗り出していく。書かれた通りを信じて読むと、ちょっとすごすぎる。
 
  この背後には、もうひとつの誰の目にも見えない少年の物語があるのかもしれない。そしてこの物語が、壮絶な内容であるにも関わらず生き生きとして途方もなく面白い冒険物語でもあるのは、少年が大変な状況の中でも、こうあれかし、と望んだある種のヒーロー物だからではないだろうか。

 そして、最後の数行でまた声を上げてしまいそうなほどの衝撃を受ける。そもそもこの子、本当に双子だったんだろうか?

 

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