「ライラック、ライラック」
朝、いつもの時間にぱちりと目覚める。
と、身体ぜんぶがとっぷりと疲れている。ぐったり感がすごくて、重たい。
あきらかに昨日のスクーリングの疲れである。
7時間座ってただけなのに、座学というのはこんなにも疲れるものなんだな……。とほほ。
さいわいにも今日は仕事が休みなので、10時くらいまで身体を横たえて、うとうととしたり、起きたり、を繰り返していた。
そうこうしているうちに身を起こせるようになったので、今日はどう過ごそうかな?と思う。
そうだ、映画でも観に行こうかしら。
家でダラダラしていてもなんだかもったいない気がした。
近場の映画館のラインナップを見ていたら、「フジコ・ヘミングの時間」という映画を見つけた。2018年に公開されたものを追悼上映しているのだそうだ。
こういうのがいいな、とピンと来た。
美しいピアノを聴きたい。きっと聴けるのじゃないかな?
いまは、うねるようなストーリーとか、泣ける映画とか、そんなんじゃなくて、ただ淡々と美しいものを見たい気がしたのだ。
・・・
スクーリング騒ぎのあいだに、あの地味な風邪はもうすっかり去った。
さようなら、鼻水。
もうすっかりいなくなっている。
ああ、よかった。
健康というものはかけがえのないものだとつくづく感ずる。たとえそれが、鼻水が出ている(出続けている)というだけであってもだ。
・・・
そんなこんなで電車にすこし乗って、「フジコ・ヘミングの時間」を観る。
フジコさんと一緒に世界中を旅をするような映画だった。
世界各地に所有する家がどれもとても素敵だったのと、彼女が絵もとても上手いこと、そしてラストのノーカットの「ラ・カンパネラ」は圧巻だった。
映画のなかでフジコさんがラフマニノフの「ライラック」という曲を自宅のピアノでつま弾いていて、「すてきね。(ラフマニノフが)恋でもしてたのかしら?」と呟いていた。
その曲がとても素敵だったので、映画を観ながら忘れないように「ライラック、ライラック」と心の中で唱えた(鑑賞中はメモができないので……)。
そして、帰りの電車のなかでYouTubeを検索してしたらありました。ラフマニノフのライラック。イヤホンをして、聴いてみる。
うーん、ロマンティック。
ラフマニノフ好きだけどこの曲は知らなかったなあ。しばしうっとりと電車に揺られる。
フジコさんは「恋」と言っていたけど、わたしには、夕暮れの海の風景が思い浮かんだ。群青の夕暮れ。青がどんどん濃くなって、夜がくる、その前の時間。
目の前には海。ふと、振りかえる。
そこにいるのは誰でしょうね。
あるいはもう居ない、なつかしい誰かなのかもしれない。
・・・
帰宅して、ほぅ、と息をつき、昨日はできなかった娘のお弁当の常備菜づくりをする。
茄子の甘味噌炒め
ピーマンのナンプラー炒め
オクラの胡麻和え
さつまいものレモン煮
料理をしているときは、わたしは「無」だ。
ただ目の前の野菜や、調味料、フライパンと対峙している。余計なことを考えずにいられるから、もしかしたらもしかすると、わたしは料理が好きなのかもしれない。
いままでは料理なんて面倒くさいなぁ~と思ってたけど、休職してからそう思うようになった。台所に立つ時間は、ひとり、無だ。
・・・
夕方、久しぶりに母からLINEがきた。
「三笠宮彬子女王が書いた「赤と青のガウン」て読んだ?
もし読んでなかったら今度貸してあげるよ。今ベストセラーになってるんだって」
お!これはわたしが読んでみたいと思っていた本だ。ぜひとも貸してもらおう。
8月にまた娘と三人でどこか涼しいところへ旅行をしましょうよとか、今朝の朝日新聞の「折々のことば」がよかったとか、とりとめもないLINEをかわす。
で、今度旅行のことを話し合おうとランチの約束をした。
母は77歳だけど仕事もしていて、知的好奇心も失っていなくて、でもなんか淡々としてて、なんかずっと変わらない人だ。見た目はさておき、中身は老いて行っている感じがない。ずっと「母」という個性をもってすっくと立っている、淡々と。
ちなみに、今朝の「折々のことば」はこちら。
「なつかしさとは、友になりうる可能性への希望の感情である」
何度も口に出して唱えたいような、美しい言葉だなと思う。
そしてその感情を、わたしはきっと知っている。知っているから、あなたのことがなつかしいんだ。