除草しなくても、育つ
田舎で田んぼや畑は無料で借りていますが、
草管理をする、という条件があります。
好きに使っていいけど、
草管理はしろよ、
特に周りはきれいにしろ、
っていう暗黙の
条件があります。
草刈り=重労働、厄介なもの、
と思う人もいます。
野菜作りよりも草管理に
危機感を感じて、
ろくに種まき等ができなかった
時もありました。
ですが、ある程度周りをきれいにし、
ある程度、畑も何か作っていそう、
ちょっと草が目立つけど、
何かしてるんだろうな、
あたりの微妙なラインを越えなければ、
大丈夫です。
草刈り=必須、
ですが野菜作り/お米作りでは
どうだろうか。
ここは個人の判断や学んできたこと、
影響を受けてきたこと、
価値観で変わってきます。
ほどほどに草取りするけど、
完全ではない。
そんなに草取りしなくていける、
しなくてもいいんじゃないか、
しなくて良いと考えたことを
たくさん積み重ねて
いったのが自然農法です。
うねを作らない
耕さない
農薬を使わない、
普通すること、当たり前のように
していたことを切っていく。
写真を撮りそびれましたが、
地区の公民館には、米栽培のカレンダーが
貼られています。
いつ田んぼの準備をし、田植え時期から、
除草剤を撒く時)回数なども
当たり前かのように
書かれています。
農協のご指導ですが、
一見きれいな田んぼに見えても、
色々手間!?をかけるのが
一般的なお米作りです。
除草するのが当たり前、
しないとお米はうまくいかないと。
個人的なことですが、
戦前の本が好きです。
除草についての記事がありました。
時期に注意、特に第一回目、
植え付け後、迅速に、などの言葉が
目立ちます。
農薬や除草剤は出てきません。
器具を使ってすることが書かれています。
今でも使っている人がいる、
古い手動の農機です。
尊農です。
「尊王」という言葉は歴史で出てきましたが、ここでは「農」を敬う。尊農です。
除草の注意としては、
苦しむのは、初期除草が
遅れたことによる怠慢、
などバッサリと他の箇所に
書かれています。
たぶん、除草が遅れた人は、
自己反省して対処、また次回に生かす、
ということだったかと想像します。
ましてや、
「天地に感謝、
土に仕えること、父母に仕えるがごとく、
作物を愛すること、
子を愛するが如し、」です。
率直に思ったのは、
思想/信念が今とは全く違う、
食べ物をとても大事にしている、
根本が違う印象です。
きっとおいしいご飯、野菜だろう、
手を合わせて食べていたんだろう、
気持ちもこもって。
何気に古い本を手にすると、
どうも目頭が熱くなってしまいます。
戦後、便利な薬品や農機が入ってきて
一気に早く、たくさん、効率よく、
という流れに進んでしまった。
気がつけば、
もう「尊農」は消え失せ、汚染、
病気といったふうになっていったのでは。
除草剤をあちこちで
撒かれているような現場を見ると、
尊農は皆無で自己中、
傲慢ささえ感じます。
なるほど、一昔前では
天を敬うかのような気持ちで、
やっていたのか。
汚染されていない、きれいな田畑、強い日本人がいた、と想像できます。
福岡正信さんは戦中を過ごしているので、
尊農があったのかもしれない。
そこから、
自然のための農法があっていいのでは、
人間のためではない農法、
野菜作り、大半は鳥のエサになっている、
人間が傲慢になっている、
という表現が出てきたように思いました。
自然が好き、
生き物が好き、
野菜はほどほどでいいかな程度の
怠惰な人間ですが、
私のような適当さは、少なくとも
環境に害は与えていない、与えたとしても少ない、と思うようになりました。
ただそれでも、何か根本的なものが欠けている、と感じています。
そんなわけで、
鎌を研ぎ、草刈りしました。
たてまえでは草刈りですが、
ゆっくり、素振りしているつもりです。
除草、って考えるより、
素振り、鍛錬、運動でもしている、って考えた方が断然健康的ですね。
ついでに草刈りができていた、
という感じです。
これだと、バックは自然で
ジムに通っているか、
道場に行って武道の鍛錬か、
少なくとも気持ちは楽です。
刃物なので、扱いは注意しますが、
手入れもします。
武士の刀のように、
農機具を使う。
手入れもする。研ぐ。
程遠いですが、
尊農に少しは近いように
なれそうです。