映画「大いなる不在」-肯定的には観られなかったけど
息子に、長らく疎遠になっていた父親が警察に捕まったという連絡が来て、行ってみたら父親は認知症になっていた。
施設に入れる時に、職員から「最期はどうしますか」と訊かれて戸惑う。
後妻(内縁?)の直美がいたはずなのに、いなくなっている。
と言うところから始まって、最後に息子が「出来るだけのことをしてやってください」と答えを出すまでの話。
息子は、直美の行方を捜し、その過程で父親の人生に思いを馳せる。
観客には、息子の知らない父親の生活が示される。
家族を捨ててまで求めた直美との穏やかな老夫婦の生活が、夫の認知症により壊れていく。
直美は見つからない。
見つからないというより、姿を現さないのかもしれない。
熱烈な恋文でアプローチされて結ばれた二人であることが描かれ、その恋文を自分の拠り所の様に大切に持っている直美。
そんな直美が、認知症になった夫を残して去っていく。
それが、私には理解できなかった。
愛する人の中からその人が消えていくことも、自分の存在が消えていくことも、耐えられなかったのかもしれないけど。
でもそこには自己愛の方が強く感じられて。
犠牲になる必要はないけれど、寄り添ってあげることはできなかったのか。
結局、夫婦は他人、ということなのか。
離れていたとしても家族の方が近いということなのか。
森山未來演じる息子が、職員からの「最期はどうしますか?」の問いに、最初は他人事としてしか捉えていなかったのが、最後には万感を込めて「出来るだけのことをしてやってください」と伝える。
「出来るだけの事」が、点滴や高カロリー食や胃ろうといった医療的な延命措置であることは、最初の施設に預ける手続きのシーンで職員から説明がある。
その措置のリアルを知っている者としては、森山未來が最後にああいう答えを出すということにも「はて?」と思ったのだった。
病気知らずだった私の母は、最期は認知症になって10年の間にゆっくりとアイデンティティを失っていき、最後は枯れ木が朽ちるように亡くなった。
実際にそういう経験をしてしまっていると、こういう映画はあまり客観的には見られない。
タイトルの「大いなる不在」とは。
辞書を引くと不在の対義語は「在宅」とも「存在」とも出る。
「在宅」だとすれば、この映画に於ける「大いなる不在」は直美のことになるだろう。
直美を失った父・陽二は、加速する認知症の中でもその理由を必死に考えていることが示される。
どうにか受け入れよう、納得しようとしていることがわかって切ない。
逆に「存在」と考えると、人の「存在」などほんの一時の事なのだと思い当たる。
最後はみんな「不在」になるのだ。
自分の不在をどう迎え、人の不在をどう受け止めるか、そういう映画なのかな、とも思った。
絶賛されている藤竜也の演技は、確かにすごい。
整合性の取れなくなった人の状態を、なぜあのようにリアルに演じることが出来るのかと思う。
真木よう子が少しふっくらして健康を取り戻したように見えて、なんとなく安心した。
森山未來による恋文の朗読がとても良かった。
役柄の職業が俳優であるらしく、ワークショップのような、小劇場芝居の稽古場のようなシーンが折々に挟まれるのだが、きっとその時のセリフにもいろいろ意味が含まれているのだろう。
そのシーンを見直したらまたわかることが出てくるのかもしれないと思った。
とはいえ、認知症を扱う映画は、今後はあまり見たくないかも。
母の事を思い出すことは、まだ少し辛い。
最後はただただ眠ったまま、施設のざわめきの中で誰にも気づかれずに逝った。
本人にはもう意識も感情もなかっただろうけど、苦しまずに逝けてよかったという見方もあるかもしれないけど、一番に思うのはやはり、寂しかっただろうな、ということに尽きるのだった。