読書レビュー「普通がいいという病」わたしの角(つの)を愛せる自分でいられるように。
沈没船ジョークというものがある。
これは、民族性や国民性をおおげさに皮肉ったエスニックジョークの代表的なものだ。
いまにも沈没しそうな船に、様々な国の人々が乗っている。パニックになっている人々が、自分から海に飛び込んでくれるように船長が説得を行うというシチュエーション。
アメリカ人には「海に飛び込めばあなたはヒーローになれます。」と言い、イタリア人には「海で美女が泳いでいますよ。」と言う。ドイツ人には「海に飛び込むのが規則です。」と言う。
さて、船長は日本人に何と声をかけるのか。
答えは「みんなもう海に飛び込んでいますよ。」だ。
この話を最初に聞いたとき、なんだかザラっとした気持ちになったことを覚えている。つまり「日本人にとっては、大多数の人間が選択している方がなんとなく良くて、正しくて、普通のことであるから、みんなが海に飛び込んでると聞けば、主体性なく海に飛び込むだろう。」と言われているのだ。
日本人の集団主義的で「普通」を求めたがる国民性は、大人になればなるほど「本当にいいことなんだろうか。」と私自身にハテナを突きつけてくる。
「普通がいい」という病
難破船ジョークが示すように、日本人は「普通になりたい」という欲が強く備わっている国民なのかもしれない。
本書の中でも、日本の村社会的な文化背景や、戦後の教育、新卒一括採用は高水準な教育や経済成長を促した良い側面もあるが、集団では構成員が同質であることが良しとされ、強要されることすらあること、異質であれば排除されるとことが指摘されている。
特に、出る杭は打たれやすい学生生活では、学校に充満する「普通」を感じ取って生きることが生存戦略となる。ビジネスの場においても、サラリーマン的な働き方をする多くの人が、会社内に漂う「普通」を一生懸命にこなすことで居場所を作っているなんてこともよくある。
たしかにその場にあるのに、誰も一様に言語化できない空気感。適応できる人間にとってはセーフティネットになりうるけれど、それに適応できない人間にとっては最悪で厄介すぎる代物だ。
「普通」って何なんだ。と悩む私に一つの答えと新しい考え方を示してくれたのは、精神療法を専門とする精神科医でもある泉谷閑示先生の『「普通がいい」という病』だ。
言葉の何が人を縛るのか
本書では、世界中の著名な詩人の言葉がたくさん引用されている。中でも印象的だったのは、フランスの詩人ジャン・コクトーの言葉を受けて、著者が「普通」という言葉について説明している部分。
これを読んだとき、いままで生きてきて何となく感覚で理解していたことが、はっきり言語化されたような衝撃を受けた。
私は「普通」という言葉ではなく、言葉ににまとわりついている手垢、つまり価値観や世界観に疑問を感じたり、悩まされていたのだと分かった。そして同時に、言葉そのもではなく、その言葉に付随するイメージや価値観の方を強く意識して、言葉を受け取ったり発していることにも気づいた。
ちなみに、本書の中でもっとも手垢にまみれていると言われている言葉は「愛」だという。
パブリックな言葉、プライベートな言葉
"言葉にまとわりつく手垢"という新しい気付きを得て、本書を読み進めていくと、また面白い考え方に出会う。それは、言葉には公的な側面と私的な側面があるということだ。
単一言語を持つ単一民族である日本人が、このことについて問題意識を持つ機会は少なかったと言われている。
言葉は、単に他者とのコミュニケーションに使用するだけでなく、物事を考えたり、自分の中だけでも使用することがある。それを「内的言語」というらしい。この「内的言語」は、他人に対して使うものではないので、いつのまにか自分の中で一人歩きして、いろんなニュアンスや偏りを持つようになる。
筆者は、言葉の二面性を例に挙げ、自分と他者が違う存在だ。という「自他の区別」が出来ない人が多くなっていると語る。
特に後者。パブリックな場で投げかけられた言葉を自分なりに解釈して、無駄に傷付くというのは多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。
相手からの何気ないメールやSNSの文章を自己解釈して「もしかして、怒ってる」と不安になったり、「そっけないな」と落ち込んでみたり。家族や友人、恋人など自分に近しい人たちには、無意識的に自他の区別が外れ、プライベートな言葉を使ってしまうことが多いが、自分でも気づかないうちに、公的な場にもそんなスタンスが漏れ出しているのかもしれない。
そうした不幸なディスコミュニケーションが、「こんなこと言われた」「そんなこと言ってない」という認識の差を生んでしまうのだろう。
「現実」とはなにか
言葉には手垢がついている上に、プライベートかパブリックかという二面性もあった。こうなってくると、言葉につく手垢は人の数だけ存在し、言葉の解釈も人の数だけ存在する。となれば「普通」という言葉への感じ方はもっと自由でいいのだ。とても心が軽くなった瞬間だった。
しかし、特定の場面で登場する「普通」があまりに多くの人の共通認識になっている場合、それは「現実」という言葉に変貌する。
「現実問題さ」とか、「現実的に考えて」という枕詞はなんとなく窮屈なニュアンスを連れてやってくるし、「普通」よりも、何だかもっと大きなものの意思の総意として抗えない圧力を感じる。
では本書では「現実」をどう捉えているのかというと、「ファンタジー」だと言い切っている。
通貨も、信用があって初めて成り立つファンタジーだ。この紙には「日本円で1万円という価値がある」というルールを、我々や世界中の人が信じているから、成り立っている。実際、ファンタジーだった仮想通貨は、ブロックチェーンの出現で通貨として世界中の人に認めたられた。案外そんなもんかとまた心が軽くなった。
わたしたちはみんな「角(つの)」をもって生まれてくる
「現実」という言葉に私が窮屈な印象を抱くのも、「普通」という言葉に引っかかることがあるのも、全ては私自身の歪みが引き起こしているのかもしれない。
自分自身が言葉に付けてしまっている手垢。自分の「内的言語」フィルターを通して思考してしまう癖。見直さなければいけないのは、「普通」や「現実」を捉える側である、私にこびりついた固定観念や価値観の方だ。
本書を読んで学んだことは、「普通」や「現実」に立ち向かおう。とか、人と違うことを恐れるな。とかそんな野暮な話ではない。
生きていく上で知らず知らずに染みついてしまった、己の認知の歪みみたいなものを、本を通して客観的に理解できるようになったことだ。
「普通になりたい」「普通がいい」という欲望は、人間社会を生きていく上ではおかしな願望ではないと思う。しかし、精神科医として様々な患者と向き合う中で、筆者はとある傾向を感じているという。これは本の冒頭、「はじめに」で語られる「角(つの)」の話だ。一番のお気に入りなので引用する。
このように「角」を憎しみ、自ら「角」を切除してしまった経験や、疎ましく思ったこと、周囲から「角」の切除を迫られたなんて経験が、誰しも一度はあるのではないだろうか。
自分の「角」を愛せなくなったり、周囲の「角」に対する価値観に疑問を感じ孤立し、心身に不調を来たし泉谷先生の元を訪れる方も多いという。
私は本書を読みながら、目には見えない自分の「角」に思いを巡らせた。きっと生まれてきたときのまんまの形や色ではなくなっているだろうけど、とても尊いものだと感じる。
この先、自分の「角」を自分自身が憎いと思うことはあるだろうし、ちょっと変えたいな、なんて思うこともあるだろう。しかし、「みんなと同じではないから」「普通じゃないから」という理由で自分の「角」をだめだと決めつけるのはやめよう。
「普通じゃない」とそう感じている自分自身を冷静に見つめ、その言葉や考えに手垢は付いていないか、誰かの価値観につられていないか、自分の思考の癖はないか、認知は歪んでいないか。ということを思い出そう。
そして、わたしの「角」を愛せる自分でいられるように、いつでも本書に立ち返ってこよう。
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