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シンデレラはどこに 真夜中はいつも。

散文。

そして、拝啓。

背景。

今日も昨日も、ありがとう。


僕って、そこまで大きく変わってないと想うの。

イメージの話、特に話してる事、内容。

言いたい事。伝えようとしてる事。

言葉。言葉使い、話し言葉。

それは そこまで変わってないと思うの。

もし、もしね。別にそれはそれで良いんだけど。
読んでもらうなら、日記なら。
僕、10月1日、それかその前後。僕が飛び降りた日 以降の日記が良い。

11月過ぎてから、少し手直しもしてます。
画像も付けたり、お色直しを少ししてます。

今日も僕は、そんなこんなで生きてます。今日も生きるぞ。

今日も、音速で誰にも自分にも負けない。



それは、良くも悪くもかもしれない。

でも、この言葉選びや言葉遊びは元々。

だから変わらない。変わってないと。


子供の頃から、学生時代から。

大阪にいた時、東京にいた時。それ以降。

そのそれなりに変わらない。

大きく変わらないと言うより、変われないの。

変わったようで、心の底にある人間性や、心の中にある僕の色みたいな個性は悲しい悲しいと寂しい寂しいと、孤独で愛されたいと全力で叫び続けているのは

そう飛び降りたところで、変わりやはしないのかもしれない。

きっとそう。

だって、記憶は風化するから。

ただ、今回 飛び降りてから、自殺してから

memento mori という言葉を意識して理解してから、


僕の日記や話の構成、起承転結みたいなものは明らかに変わったと自覚してる。


何も怖いものがなくなったとか、強くなったとか、噺や物事にドキドキしたりトキメキが無くなって、何もかもが つまらなく そんな感じで毎日が落ち着き始めて、今までの僕の人生は何だったのだろう、そう感じてしまっている。


それを良くも悪くもと呼ぶなら、良くもは「安定」悪くもは「不安定」。


若気の至りも拗らせると、狂気の沙汰も誇示させると 死に至ってしまったけど。


今はそれはそれで、その時や、今までのそれがあったから、今のこの僕がある訳で。


今のこの自分の存在の「僕」は、生きているからこそ語れる訳。


文章や言葉は、最適化されてると自分では思っているの。


全てでは無いけど。


今の自分に出来る、身の丈に合った、足元もしっかりと、まだまだ人生を語れはしないけど、そのそれなりに理解して「最適化」していると想ってるのよ。自分では。


「笑うなら笑えば?」


「僕は、僕に害がなければ、僕がその悪意や害意や 好き勝手に話や無い噂を耳にして」


「お前、それ解ってるよな?」


「言って良い事と悪い事の区別、判断はして その話してるんだよね?」


と、気分を悪くしなければ許して流してあげてるだけよ。




さっき


「男の人生、三日あれば変わる」


って話を聞いたの。


僕は三日なのか分からないけど、


とりあえず、何か8日、9日、10日。


まだまだ僕は生きてるよ。


当分はまだ生きてるよ、もう少し生きてみる事にするよ、では無くて。


僕は今、生きてる と。




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