見出し画像

したがき 風の中で

最近

「1億くらいあっても幸せになれない、11億くらいあったらいいのに」

「楽な仕事ないかなって」

「仕事が生き甲斐とか、働くのが好きとか言ってる人、理解できない」

「みんなそのうち死にたくなって、こっそり死んでるよ」

そんな声に、飽きれて冷たく対応する。
そうすると「変な空気になるなよ」みたいな顔される。
けれど、それにも少しだけ慣れてきた。

・・

ニュースや話題になる事があると今でもこう思う。

こいつと同じなんだろうな

こんな奴らと紙一重やしな。

この3年間で僕はここに

人が争っていたり喧嘩したり、問題や事件が起きてしまっていると、そういうのを見て

「きっと、そういう時なんだろうな」

「なんか事情はあるんだろうけどな…」

そう思って眺めている。流している。
人間そういうもんだと、僕は、思っている。

年齢は関係ないと言うのは、
「その歳になっても経験してないんだな」
って思うから年齢は関係ないのだなと思う。

人生の先輩に敬意は持つけど、歳だけ食ってたら偉い訳ないもの。

いつまでも子供が癇癪や感情をコントロール出来なくて、暴れていたり、泣いているだけ。
膠着しているだけの抗争や、反抗のままで変われていないのは悲しい事。

だから、それでは大人になれないの。

怒るのは、対応策を知らなかったか。
その先に何が起きるか想像していても対策を打てなかったのは、どう打てば最善なのか。そこが考えられなかったからだ。

対応策を知らないのは、経験が無いから。
あるいは何度も反省をしていないから。
だからその先の気付きも無いからだ。

もし他人が何度も同じことを繰り返していたなら

「人間なら何とかしろよ」

と冗談っぽく言っていると思う。
他人事なら、僕は強く言ってしまうと思う。

でも、自分に甘くて他人に厳しい人ではないから。
人間がやることに期待をしているけど、人間の善意や愛を信じる時に無条件を少しでも出してしまうと付け居られるし。食い殺さてしまうと思う。

「人間なんだから、同じ人間なら」

僕は、僕らが生きていける世界が良いなと、
あて先のない思いを吹かせている。

・・

生きている間の時間と経験は、同じ人間が同じ人生を生きていればと過程すれば、年齢と経験値は比例していくのだろうけど。

人間なんて、自分が生きているその小さな世界と、その中の人間関係や誰かが偶然に言っていたような常識や「普通」とやらを語って生きているだけなのだから。

そこに気が付けば、もしかすれば、残された人生をどう生きるのかを、嫌でも、動けるようになるのかなって能天気な鬱。

・・

今日、ご飯が食べられるなら。それは平和な生活だと思う。

明日もご飯が食べられて、雨風が凌げて温度も維持できる部屋があることは平穏無事な生活だと思う。
お風呂が入れて、電気がついて、パソコンや携帯が使えて、身体が動いて自分で外が歩けるなら、それは人間としては生きていける生活だと思う。

暖かい布団で眠れて、柔らかいような、例え汚れていても横になれる環境があるという事は本当は幸せな事だと思う。
どんな食べ物であったとしても、お腹いっぱいに空腹を満たせて、普通に食べられるものを食べられているならそれは生活が守られているのだと思う。

でも、それでも僕は満足をしない。まだそれを幸せだ、満足してるとも思えないけど、上を見て歩く気力や元気はない。

けれど、それでも、これが僕の人生だと思う。
良い事も悪い事も、それだって自由で、価値観や正義は人それぞれだ。
法律も常識も、普通の感覚も、良識という偽善も。
その人、その人間の勝手な解釈だ。

僕は生きていく。

もう後が無い。

もう後は無い自殺なんて、絶対に嫌だ。死ねない。怖い。

死ぬほどの思いをして、恐怖や不安、苛立ち、絶望すらも忘れて我も忘れて、完全に正気を失って、全てを台無しにして、ぶち壊して。

それで報われる叶う夢や現実があるなら、それはとても恐ろしい事だ。

そこまでして、そこまでする事か ?

絶対に死なない。死にたくない。

だから、あとは、僕がどう生きるのか、道を考えながら、その都度、軌道修正する。

訂正する力もつけながら、ながら、僕らはそれでも生きていくのです。

・・

偶然でも目立てば事件で、偶然でも見つかれば売れるみたいな話。
偶然でも風が吹けばその気になって、
偶然でも何者かになりたくて名乗ってみたもの。

生き辛さからの脱却。
生き辛い僕らの卒業。
生き辛かった僕らから、生き辛い過去の僕らへ。

死ねないから。

死ねないから、その次を、そこからを考えろ。

そこからを考えるしか道はないぞ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?