「考えすぎ」問題/「自分の機嫌は自分で取るべき」か?/チャット型コミュニケーションとFOMO/瞑想のコツ/エリートとコモナー/雑談と記憶の外部化
それは「考えすぎ」なのか「考えなさすぎ」なのか
しばしば私たちは、物事がうまく進まない場面で、その原因を「考えすぎ」に求める。確かに、いくら考えてもわからないことだってあるだろうし、そういう時は考えるより動いてしまった方がよい。
一方で「考えなさすぎ」が原因でうまく進んでいない場面も我々は時に目にする。同じようなトラブルを繰り返して、その都度損失を出しているにも関わらず、その原因をまともに考えていないために、また同じことを繰り返す、というような。
この二つは一見別々のベクトルであるように見えるが、実は同じ現象を異なる側面から見ているだけだと思っている。それは「経験や思考をリファレンス化できていない」ということだ。
考えすぎというのも、本来は、一度考えたことは二度三度考える(いわゆるぐるぐる回りというやつだ)必要がないわけで、それを避けるために、「考え」の結果分かったことを蓄積してリファレンスにしておくべきだ。しかし、適切なリファレンス化ができていないから、せっかく「すぎる」ほど考えているのに、思考が積み上がらない。
一方、考えずにやってみるべき場面でも、やってみた後の経験をリファレンスにしていけば、同じ問題を引き起こすことを回避できるはずだが、それができていないので、同じような条件で同じような行動をやってみて、やはり同じような損失をもたらしてしまう。
このように「考えすぎ」も「考えなさすぎ」も適切なリファレンス化のプロセスの欠落という点で同じ現象なのだと言える。
ただ、ちゃんと使えるリファレンスを形成するのは簡単なことではないのだろう。だから人は同じようなことを「考えすぎ」るし、「考えなく行動しすぎる」のだろうと思われる。これは考えの量の問題ではなく、適切なリファレンスをどう作るか、という問題だ。そこにこそ思考のリソースを注ぐのがよいだろう。
「自分の機嫌は自分で取るべき」という言説は社会規範として妥当か
「自分の機嫌は自分で取るべき」という言説はしばしば社会規範として語られることがある。これは一見説得力があるし、私もうっかり使ってしまう。だが、これを安易に適用するとデメリットもありそうだと思っていた。
で、こないだ友人とお話ししていて気づいたのだが、これは規範ではなく、「抜きん出て得するための裏技だ」ということだった。
我々は、「他人に機嫌をとってもらうこと」に慣れすぎている。というのも、高度に発達した資本主義社会では、他人の機嫌をとることがサービスとして値がついてしまう。変な話、「無愛想なラーメン屋」は、どんなに美味いラーメンを作っていてもそれを補ってあまりあるほど不利だ。ウェブ上の評価コメント見ていると、その手のコメントをたくさんみることができる。
こういう愛想みたいなのを商品として提供する労働は「感情労働」と呼ばれるが、逆に言えば愛想は商品として流通するので、僕らは自分の機嫌を自分で取るなんていうめんどくさいことをしなくてもよいというか、他人に安価で機嫌をとってもらう方が得になってしまう構造に生きている。いうなれば「自力で機嫌をとる筋力」が衰えて「機嫌を介護される」ことが当たり前になっている。
そしてそれは自分の機嫌をとるというニーズを外部サービスに強く依存するということである。自分の機嫌さえ自分で取れない。機嫌良くなりたければ、うちの商品をお買い上げください。それが資本社会の要請だ。
逆に言えば、この社会で「自力で機嫌をとる筋力」を鍛え、内燃できれば、そういう社会への依存度を下げることができる。そして自分の機嫌をとるために他者に投じていたリソースを自分に投じ直すことができるので資本形成上、有利になる。
この理屈で行けば、「自分の機嫌を自分で取れる人々」は、「自分の機嫌を自分で取れる人々」のコミュニティに閉塞するだろう。そこでの取引では他人の機嫌をとることにリソースを割かなくていいので、さらに有利なリソース配分をすることができ、ますます有利な生活を送れるようになるだろう。
このように、「自分の機嫌を自分で取る筋力を獲得すること」は有利にはなるが、「自分の機嫌を自分で取るべき」という規範とはなりえない。これは筋力なので、どうしてもひとりひとりの能力差が生じる。だから一律の社会規範として枠をはめると、必ず反発がしょうじる。だからこれは規範ではなく、裏技なのだ。まあ、しいていえば、「自分の機嫌を自分で取れる人々」のコミュニティにおいて、異物者を排除し共同体の純度を維持するために使える規範ではあろうが、それはあくまでローカルルールであって、普遍的な規範ではない。
こういう、本来「一歩抜きん出る」ための裏技として流通する教えが、その流通過程でうっかり「社会的な規範」と置き換えられてしまう現象が世の中にはある。「裏技」でしかないものを「規範」と誤解しないこと。その言説がどちらに属するのか、誰に向けた言葉なのかをチェックすること。これが大事である。
チャット型コミュニケーションとFOMOの発生メカニズム
いま、お仕事でもプライベートでも、チャット的な仕組みに頼って連絡を行うケースが多い。ギグエコノミーで組織越境的なプロジェクトでは特にこういうツールに頼りがちになる。しかしそれゆえか、同じような課題を抱えているチームも散見されるようになった。全然性質の違うチームでも共通して起きていることから、これはチームの問題というより、ツールの問題であるように思われる。
チャットの特徴は、いわゆるメールと比較するとわかりやすくて、メールが文字通りの「手紙」に似たゆっくりとした速度感でのやり取りになるのに対し、チャットは文字通り「おしゃべり」なので、やりとりが速い。
しかし、「おしゃべり」であるがゆえに、おしゃべりと同じ欠点も引きずっている。
例えば大事な発言が拾われず流されてしまうというデメリットがある。「自分が返信しなくても誰かがするだろう」という感覚になるらしい。この辺は、普通のおしゃべりと似ている。文字通りのおしゃべりならそれは何の問題もないが、お仕事で意思決定を必要とする場面でこれが出ると、大事な意思決定が確約されないままに物事が進んでしまう。
もう一つの問題が、「FOMO」だ。これは「Fear Of Missing Out」の略で、「取り残されてしまうことへの不安」を意味している。常に周りの情報や行動についていかないと自分が置いていかれたり、チャンスを逃してしまったりするのではないか、という恐怖心のことだとされる。
で、これを「恐怖心」と説明してしまうと、例の「考えすぎだよ」問題に矮小化されがちだが、ここで考えるべきは、この恐怖心を生む構造の方だ。
例えばこんな状況を想像してみよう。5人のチームがチャットでやり取りをしている。あなたはたまたま別の会談が重なって、一日チャットを見る余裕がなかった。そんな中、チームの一人がある重要な提案をチャットに投げる。その時、たまたま、あなたをのぞく4人のメンバーの手が空いていた。4人はその重要なテーマについて、ああでもないこうでもないと意見を交わす。そして「考えるより、やってみよう!」となって、行動し始めてしまう。
翌日、やっと会談ラッシュが落ち着いたあなたはチャットをひらいてギョッとする。50件もの未読があり、そして自分のいないところで重要な意思決定がなされ、対外的な行動が始まってしまっているではないか。
これはいわば「自分の預かり知らないうちに重要な会議が開催され、自分はそれに欠席した」という状況に近い。
このケースの場合「そのやり取りに参加していないあなた」の発言権を保護するため、重要な意思決定をする前で止めておく。しかし、そういう「ビジネスっぽい規範」とチャットのおしゃべり文化は相性が悪い。というか、ビジネス的な規範性がないがゆえに気軽なおしゃべりが可能になっているというべきかもしれない。
この状況で、「ビジネスっぽい意思決定を大事にしてください」というのもそれはそれで場違いだ。じゃあこの状況を回避するためにどうしたらいいかというと、どうにかリアルタイムで食いついていくしかなくて、結果、FOMOが生じることになる。こうして考えると、これは「恐怖心」の問題ではなく、構造的な問題なのだといえそうだ。
解決策は、いくつかの事例を見ているとどうも大きく二つあるようだ。一つは、ディスカッションや合意をしようとすることをやめることだ。それぞれが独自に動いていく。チャットはブレストや結果をシェアするだけの空間にする。もう一つは、コアメンバーと一般メンバーを分断することだ。コアメンバーはそれこそ対面で頻繁に会ったり、直接電話したりして重要な意思決定を行い、チャットではそういう重要な意思決定の結果を知らせたり、メンバーへの依頼をするためだけの場にする。こうすることでチャットのデメリットを最小化し、メリットを最大化できるようだ。
もっとも、これを意識して実行しようとすると、チャットルームを運営する、いわばファシリテーターが必要になる。そんな人材がどこにでもいるわけではない、というのが、おそらくはもう一つの構造的な問題なのだといえそうだ。
瞑想のコツは「自分が今何を考えているか、と問うて答えを待つこと」ではないか説
気持ちが疲れていたので、久しぶりに瞑想をやってみた。そこで気づきがあった。コツを掴んだというか。
瞑想をする場合、「自分の呼吸に集中する」というようなサジェストが行われることが多い。しかし私はこれが上手くはまらなかった。
しかしこないだ「自分は今何を考えているかな?」と問うてみた。すると、何も考えられないのだ。自分が今何を考えているか、と問うて答えを待つが、何も帰ってきはしない。そう、どこにも「考え」なんてものがない、どこにもありはしないのだと気づく。結局、自分があれこれ妄想を生み出していただけであったのだ。
思うに、自分の意識が「見る側」にシフトすることで、強制的に思考を停止するのだろう。これはなかなか効いた。
その上で、体感に意識を移す。すると、肌と服が擦れる感覚や、周囲の音に鼓膜が震える感覚、それこそ呼吸の感覚などがあると気づく。しかし、いきなりここに意識をおくことは難しい。まず思考を止める、観察モードに入る必要があった。順序があったのだ。
リファレンスを作るエリートと、エリートの作ったリファレンスの中で遊ぶコモナーという社会的役割分担
一般論として、人は記録をつけるのも、振り返るのも苦手だ。思うに、今と近い将来でメモリが使い果たされるのだ。
先に、「考えすぎ」と「考えなさすぎ」はいずれもリファレンスの不成立という現象で説明できるという話を書いたが、じゃあなぜリファレンスが作れないかというと、そもそも人はそれがすごく苦手だからだと言える。
例えば大学で学生にレポートを書かせると、まず大抵の場合、参照文献が示されない。リファレンスを構築する、参照するということが、素朴な感性にとってひどく難しいことなのだと感じるひとまくだ。
しかし、現実問題として、じゃあ苦手なんでやめときましょうとなると個人としても組織としても社会としても成長ができない。では、世の中の組織体ではこれをどのようにクリアしているか。思うに、「リファレンスを作れるし参照できる才能の持ち主」と「そうではない一般の人々」とを切り分けることになるだろう。
リファレンスを作るとは、いうなればマニュアルやルールを作るということだ。過去の様々な事象を参照して「ここまではしていいけど、ここからはしちゃだめよ」と決める。その他の人々は、訳もわからないまま、そのルールに従って自由に振る舞うが、不思議と大きなトラブルにはつながらない。
いわば「安全な砂場を作る大人」と「砂場で遊ぶ子供」に分けるのだ。
前者がしっかり考えない場合「考えなさすぎ」になるだろうし、後者があれこれ考えてしまう場合「考えすぎ」になるだろう。立場、役割によって、求められる「考える度合い」が異なるということなのだろうと思われる。それをテレコにするとろくなことにならないのだろう。
前者をエリート、後者をその対義語としてのコモナーと呼ぶこともできるだろう。
エリートにはエリートの、コモナーにはコモナーの取るべきプレイというものがあるのだという話かもしれない。
短期メモリの少なさを「他人に覚えておいてもらう」ことで(ざっくり)補うという解決策
これまでも何度か書いてきたことだが、私は自分の短期メモリを全く信じていない。それこそ、「あ、思いついた」ということを、メモしようとした瞬間には忘れている。「揮発性が高い」というか。私の記憶の「染み」は、エアリズムばりに速乾する。
私の「忘れっぽさ」が平均的なものか、それとも以上に忘れっぽいかはわからないが、多くの人々のトラブルの原因を見ていても、まあ、大抵の人はそんなに大差ないと思う。だから大抵の職場では、新人が仕事を教わるときは「メモを取れ」というわけだ。つまりリファレンスを作れというわけだ。
しかし、先にも書いたように、人はリファレンスを作るのも参照するのも苦手だ。じゃあどうしているんだろう、と考えて、ふとひらめいた。
「人に話す」のじゃないか。
つまり、短期記憶を、手でメモするのではなく、人に話す。そうすることで、人に覚えておいてもらうのだ。他人の脳を外部メモリとして使うのである。もちろん、みんなメモリの性能は大差ないから、それでも忘れられていくんだけど、一人の脳で保持するのと、5人の脳で保持するのとでは、完全消失する可能性はどう考えたって後者の方が低い。
ある出来事に関する記憶を、誰かが覚えておいてくれることに期待する。そうすれば、5人中4人が忘れていたとして、一人が「あれ、どうなりました?」ということで、他の4人が「思い出す」ことができる。まあ、思い出すというか、覚え直すというか。もちろん、全員が忘れているケースもままあるから万能の方法ではないが、メモをしないしリファレンスも作れない一般人である我々がどのように物事を前に進めているか、というと、そういう泥縄的な対応で、なのではないかと思った。
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